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苔庭








也有のページへようこそ
横井也有(よこい・やゆう)は江戸時代に活躍した尾張の俳人です。
このページは有名な俳文「鶉衣」を中心に也有の句業をご紹介するものです。ただし、私は素人の俳句愛好家に過ぎませんから、学問的な精確さは望むべ くもありません。也有はおもしろいなあと思いながら読みちらしている、その途中経過がこのページです。
どうぞ、也有の世界を覗いてみて下さい。

也有を語る
 翁の文にをけるや、錦をきてうはおそひし、けたなる袖をまどかになして、よく人の心をうつし、よく方の外に遊べり。
「鶉衣」序文

 ひとり此翁や十躰の術に明けく、常に六つの境を自在にす。練摩凝滞せず、句を吐く事一杯のとろゝより安く、魂を入るる事手拍子に歯を抜くよりもすみやか也。京極黄門も秀人に偏執なしとは誉置きたまへりとぞ。
「蘿葉集」後序

 横井孫右衛門は尾陽名古屋の重臣なり。性淳朴にして文雅を好む。俳諧にも長じて、世に独立す。つねに人に語って曰く、われに俳諧の師なく、また門人もなし。ただ正直なる小児の、舌しどろに言ひだせるが、おのづから五七五にかなふべしと。俳名を也有といふ。
「俳家奇人談」

   朝顔や紺に染めても強からず  也有
 糸などを紺に染むれば糸が強く丈夫になるとは俗に言ふ所なり。されど朝顔の花は紺色のものもやはりその朝限りの命にて強くもあらずとおどけ興じたるなり。也有の句概ねこの類なり。これらもちょっとをかしみあれど、初学の模倣すべきものにはあらず。
「俳諧大要」

 それにしても也有の句が余りに雑俳趣味に傾いたのは、紀逸の武玉川や川柳の家内喜多留の影響もないではなからう。武玉川初篇の出た寛延三年は也有の四十九歳、家内喜多留初篇の明和二年は六十四歳の時である。也有の句「昼顔やどちらの露も間に合はず」が単に「や」を「は」にかへて、武玉川六篇に出でゐるのも偶然の暗合かも知れないが、その趣味の接近を証する足りる。
「江戸文学研究」

 也有は、徳川時代俳文家の白眉也。この一篇(注:「袋の賛」)、極めて短けれども、意味深長也。所謂寸鉄人を殺すとは、この類を云へるもの乎。老荘の思想を伝へたるものにて、珍らしとにはあらねど言ひあらはし方面白く且つ奇抜也。
「国文評釈」

 也有は、俳道の君子なり。
 元禄以後天明に至る混乱時代の俳壇に於いて、吾人の最も記憶すべき俳人を、也有及び蕪村となす。俳文に於ける也有の大と俳句に於ける蕪村の大とは、此一百年の俳壇に於いて、何人も幾及し得る所に非ればなり。啻に此一百年の間のみならず、俳文に於いては、俳諧史上也有に対峙し得るもの、芭蕉唯一人あるのみ、俳句に於いては、蕪村に対峙し得るもの、芭蕉と明治の子規とあるのみ。
「花鳥虫魚百譜詳釈」

俳文は芭蕉を祖述して単に「巧なり」といふ点より見ればたしかに一段巧妙の域に進み縦横自在時としてあまりに文を弄したるにあらずやと思はるゝまで筆の走れるもあり、然れども其思想のすこやかにして行文のなだらかなる永くわが文界の一偉観として存するに足るものあり一代の著鶉衣、浦の春、野父談等悉く金玉の文字たるを失はず。
「俳諧百話」

 鶉衣に収拾せられた也有の文は既に蜀山人の嘆賞措かざりし處今更後人の推賞を俟つに及ばぬものであるが、わたしは反復朗讀する毎に案を拍つて此文こそ日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後と雖も必ず日本文の模範となるべきものとなすのである。その故は何かといふに鶉衣の思想文章ほど複雜にして蘊蓄深く典故によるもの多きはない。其れにも係らず読過其調の清明流暢なる實にわが古今の文學中その類例を見ざるもの。和漢古典のあらゆる文辭は鶉衣を織成す緯となり元禄以後の俗體はその経をなしこれを彩るに也有一家の文藻と独自の奇才とを以てす。渾成完璧の語こゝに至るを得て初て許さるべきものであらう。
「雨瀟瀟」

 句に歌に文に、任意の形式をとって、もの平をえてもえなくても、鳴るものは朝夕におのずから鳴る。かたちに発したものを、他人が見ようと見まいと、いや、当人が捨てようと捨てまいと、それがなにか。「あけくれの自由」は生活の日常にあった。
「横井也有」

 也有は実に勤勉な人だった。儒学を修める一方、俳諧・俳文・和歌・漢詩、さらには狂歌にも熟達し、他方絵画も修めていた。武芸のたしなみもあったという。しかし中でも彼の名を有名にしたのは「鶉衣」に代表される俳文で、かつては旧制高校でも大学でも、受験の際には読むべき必須の文章の一つだった。
「名句歌ごよみ・夏」


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 (C) Mutsuo TAKEUCHI