俳句の森 > 蕪村句集
京の竹林
句番号はサイト内での検索のため便宜付したものです
句の表記は底本によりますが読み易くするため改めている場合があります

訳文は簡潔を旨として現代語訳を記しました
季語は『俳諧新選』に採録されている季題・季語を基準としました
語釈は句の解釈に必要な語句について記しました
解釈は句が詠まれた背景や拠り所を簡潔に記しました
参考は参考となる発句・付句などを示しました

その他詳細は角川ソフィア文庫版『蕪村句集』に準じます



profile

長野県生れ。
早稲田大学大学院文学研究科修士課程単位取得。文学修士。
清泉女学院大学教授。近世俳諧史専攻。
著書に『彩の人建部綾足』、『上州冨永家の俳諧』、『現代語訳付き蕪村句集』など。
共著に『新芭蕉講座』、『芭蕉・蕪村・一茶の世界』など。

tamaki





玉城司 訳注
角川ソフィア文庫


蕪村略年譜

享保元年(1716)
摂津国東成郡毛馬村に生れる

元文2年(1737) 22歳
宋阿(夜半亭巴人)の内弟子として日本橋石町に住む

元文3年(1738) 23歳
「夜半亭歳旦帖」に入集(号・宰町)

寛保2年(1742) 27歳
宋阿没。下総結城に赴き、雁宕のもとなどに滞在、以後関東・東北地方を遊歴

延享2年(1745) 30歳
この頃出家

延享3年(1746) 31歳
11月頃江戸へ行き芝増上寺裏門あたりに住む

宝暦元年(1751) 36歳
京都へ移る

宝暦10年(1760) 45歳
この頃結婚

明和3年(1766) 51歳
初めて三菓社中句会を開く

明和7年(1770) 55歳
宗匠立机して夜半亭を継承

明和8年(1771) 56歳
池大雅との競作「十便十宜」成る

安永2年(1773) 58歳
几董編「あけ烏」刊

安永3年(1774) 59歳
「蕪村春興帖」刊

安永5年(1776) 61歳
「続明烏」刊、娘くの結婚

安永6年(1777) 62歳
「新華摘」の句文成る、召波「春泥句集」に序文

安永7年(1778) 63歳
「奥の細道画巻」成る

天明3年(1783) 68歳
義仲寺の襖絵を描く
晩秋頃から病気、 12月25日没




gallery






呉春画

松村呉春(月渓)画
句は蕪村の「具足師のふるきやどりやうめの花」


硯箱

白井半次郎宛蕪村書簡を意匠とした蒔絵硯箱(部分)


硯箱

(同上)


巣兆画

建部巣兆画


大魯短冊


大魯短冊(四国大学図書館蔵)
「畔道や雉子の貌をみて過る」


蕪村画

蕪村画 首引き図(部分)


蕪村画

蕪村画 首引き図(部分)


巣兆自画賛

建部巣兆 筑摩祭自画賛


素檗自画賛

素檗自画賛


素檗自画賛

素檗自画賛


蕪村短冊

蕪村短冊
『猿どのの夜さむ訪行兎かな』
古今短冊集所載








最終更新2011年10月10日


蕪村句集続編

 拙著『現代語訳付き蕪村句集』(角川ソフィア文庫)に採録できなかった句について注解します。文庫版と同じスタイルですが、これにエッセイを加えて気ままに筆を遊ばせて行きたいと思っています。


元文二年(1737)丁巳 22歳

1001
君が代や二三度したるとし忘れ

夜半亭『元文三年正月』

訳文 ありがたい平和の御代だねえ。一度ならず二度も三度も酒を酌み交わした年忘れ。
季語 「とし忘れ」冬。
語注 君が代…「君が代は千代に八千代にさゞれ石の岩ほとなりて苔のむすまで」(古今集)。
とし忘れ…一年の労苦を忘れるための酒宴。忘年会。
解釈 平和な御代を寿いだ作。巴人の夜半亭での楽しげな雰囲気が伝わってくる。
参考 可政「君が代は千代に千枝の松飾り」(続山井)。

 この年の春、六二歳の早野巴人は『夜半亭歳旦帖』を刊行、京都から江戸へ戻ったことを門人たちに知らせた。蕪村は、これ以前から巴人に師事していたらしく、師を頼って江戸へ下り、石町にある巴人の夜半亭に身を寄せた。そこへ門人たちが訪ねてきて、師の長寿を願って年忘れしたのだろう。いまにいう「忘年会」。
 サラリーマンの友人曰く「忘年会が二三度ですめばいい」。ちなみに「忘年会」の言葉は、明和七年(1770)刊、綾足の笑話『古今物わすれ』が初出。わが恩師雲英末雄先生が、指摘してくださった(『建部綾足全集』8・月報)。
 綾足は蕪村が生きた江戸時代中期の俳人・小説家・画家でマルチタレント。明和期には蕪村と同じ京都に住んでいた。綾足門の一鼠や一音などは蕪村と交流したが、蕪村と綾足は直接交流しなかったらしい。
 ところで、「君が代」は、徳川治世の幕藩体制ではなく天皇を中心とした治世をイメージすることが多い。明治一三年(1880)に「君が代は」が日本の国歌となってからは、いっそうその感を深くする。もともとは恋人や愛する家族を「君」と呼んで敬愛し、その永遠の命を寿ぐ歌だったのだが・・・。


元文三年(1738)戊午 23歳

1002
不二を見て通る人 ( あり) 年の市

夜半亭『元文四年歳旦』

訳文 富士山を見て通って行く人もいる。このせわしない年の市。
季語 「年の市」冬。
語注 年の市…十二月中旬から大晦日まで立つ、正月用品を売る市。浅草寺・深川八幡・神田明神の境内など各地に立った。芭蕉以降の季語だろう。
解釈 にぎわいを見せる世俗の年の市とは対照的に超然とたたずむ不二山(富士山)。蕪村の時代以前から「富士見西行」の画が描かれていたことから推して、不二を見て通り過ぎて行く人は、世俗を捨てた西行の面影。
参考 署名「宰町」。芭蕉「年の市線香買に出ばやな」(続虚栗)。

広貞画・富士見西行図  富士の表記は、不老不死伝説と結びつけば不死の山、世界に二つとない山と誇って不二、縁起をかついで富士と書き分けているように思っているが、いかがだろうか。
 芭蕉句には「不二」の前書で「一尾根はしぐるゝ雲かふじのゆき」(泊船集)、また「富士の雪廬生が夢をつかせたり」(六百番誹諧発句合)、他に「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」(自筆巻子『野ざらし』)と表記した例があり、「不二」と「富士」の表記を併用していたことが判る。
 蕪村には明和六年54歳の名句「不二ひとつうづみのこして若葉哉」(*181)がある。この真蹟(色紙)前書には「富士の句を得てし折から…」(同)と書くので、蕪村も両方用いたことになる。一茶には「夕不二に尻を並べてなく蛙」(七番日記)、「達磨きや箒で書し不二の山」(七番日記)「初夢に猫も不二見る寝やう哉」(文政句帖)など「不二」と書く例が多いが、芭蕉「霧しぐれ」句を踏まえた「雲霧もそこのけ富士を下る声」(七番日記)のような例もある。
 不二(富士)を詠んだ句は少なくないが、富士山を描いた画はその数倍もあり、無数にあると言っても過言ではない。管見では蕪村が富士を描いた画は三点ある。富士山の偉容や雄姿を誇るような画は好きになれないが、富士の裾野に松原が広がる構図の蕪村画「富岳列松図」や「富岳図」は、やわらかで実に好ましい。

(*181)は、拙著『蕪村句集』(角川ソフィア文庫)の番号


1003
お物師の夜明を寝ゐる師走哉

時々庵『己未歳旦』

訳文 縫物師が夜明になってようやく寝床についた。忙しい師走だったことよ。
季語 「師走」冬。
語注 お物師…縫物師。場和「お物師の自慢草也花の菊」(誹諧江戸蛇之鮓)。
解釈 正月用の晴れ着を縫うために夜明けまで働く十二月の縫物師。職人を見る蕪村の目が温かい。
参考 知足「お物師の只手を置かぬとしの暮」(寂照庵初懐紙)。

縫物師(七十一番職人歌合)  『七十一番職人歌合』(延享元年版本か―刊記欠)の五十一番に「ぬひ物し」(左)と「くみし(組師)」(右)が左右に番えられている。縫物師の歌(左)は、「ぬひものゝうらうすやうの紙まてもすき影しろくすめる月かな」(縫物の模様をつけるための裏紙にまでも、透き通る月光が白く澄んでいることよ)。その評は「左、ぬひ物のうらうすやうすきたるまてさやかなる月、いとめてたし」。
 『七十一番職人歌合』の原型は、中世に成立していたようだが、岩波の新古典体系本(1993年3月刊)に収録されたことに象徴されるように、近年になって見直された古典である。
 職人を詠んだ歌を番いにした歌合というイメージで読むと、歌のテーマは月や恋が多く、職人そのものを詠んでいるわけではないことに気がつく。つまり、この歌合は貴族が職人をダシにして詠んだ、歌の題を拡充するための趣向のひとつとして見た方がよい。こんな言い方をしたら、不遜に聞こえるかもしれないが、どうひいき目にみても、職人そのものに興味があったかどうか危ぶまれ、その暮らしぶりもまったく判っていないと思う。言い過ぎを覚悟で言えば、貴族趣味に過ぎないのだ。
 これに対して、若き日の蕪村は、ちゃんと職人の生活を知っている。何を題材にしてどんな趣向で詠んでいるか知ることは大事だが、どういう姿勢で詠んでいるか見極めないと思わぬ落とし穴がありそうだ。和歌の作者と俳諧の作者の違いなのか、和歌と俳諧という文芸の雅俗の問題なのか、結論は急がない方が良いとは思うが…。


寛保三年(1743)癸亥28歳

1004
松島の月見る人やうつせ貝

『杖の土』

訳文 松島の月を見る人よ。あまりの美しさに、言葉を失ったうつせ貝のよう。
季語 「月」秋。
語注 うつせ貝…空の貝殻。平通時「逢ふ事は波よる礒のうつせ貝つひにくだけて物思へとや(続千載)。
解釈 芭蕉が「松島の月、先ず心にかかりて」と冒頭部で書きながら、松島では、あまりの美しさにこころを奪われて、句を詠めなかったと記したこと(奥の細道)をふまえている。関東にあって、東北地方を遊歴した折の作だろう。
参考 中七「月見ぬ人や」(新五子稿)。鸞岡「かげろふやもゆるが中のうつせ貝」(春秋稿)。

 「うつせ貝」の「うつせ」は、「うつろ」(空洞)、「うつけ」(空け・虚け)等と語源を同じくして、中味が「空っぽ」の状態をいう。「うつせみ(空蝉)」は、「空身」を言いかけた言い。「うつくし」もこれらの仲間で、「対象に心を奪われて空っぽになるほどの状態」だと思っている。こんな語釈があってよさそうだが、手元の『広辞苑』(第五版)にはみあたらない。他の辞書類等で登載されていたら、教えていただきたい。
 ところで、「うつせ貝」から恋を連想しがちだが、この句は恋句ではなく、名月にみとれる人を「うつせ貝」に喩えて、芭蕉を思い描いて詠んだ句だろうと推察して現代語訳した。蕪村は後年、奥の細道を描いて画巻にしたが、若い頃から、その愛読者の一人であったことが、この句からうかがえる。なお、芭蕉『奥の細道』が、江戸時代のロングセラーだったことは、よく知られている。


1005
水引も穂に出けりな衣くばり

寛保四甲子歳旦歳暮吟

訳文 水引草にまでも穂が出たよ。うれしい衣配り。
季語 「衣くばり」冬。
語注 水引…進物用の紙糸。祝事には、水糊を引いて固めた紅白・金銀などの紙縒りを用いる。タデ科の多年草・水引草を言いかける。タデの異称を利根草と言い、夏・秋頃に赤色の小花を穂のようにつける。長宅「穂に出て人につまるな利根草」(崑山集)。衣くばり…歳末に正月用の衣類をくばること。木導「餅つきの手を払ひけり衣配り」(渡鳥集)。
解釈 主人など目上の人が行う衣配り、上等な包み紙にくるまれて水引がかかっていればいっそうめでたい。待ち望んだ衣配りの日の喜び。「穂に出る」から恋心が表れる、と読む説もあるが無理があるだろう。
参考 参署名「宰町」。嘯山「衣配り美目(みめ)よき使(つかひ)選(えら)れけり」(葎亭句集)。

 「衣配り」は、『源氏物語』「玉蔓」巻で有名。自分のまわりに女性たちを集めて、それぞれに似合った衣服を配る。なんとも贅沢なことである。衣配りは正妻の役目だったとしても、資力も美貌も権力も備えた光源氏がバックにいたことは間違いない。庶民は、「いいなあ。そんな贅沢もありますね」と妙に納得するだけで羨望の的にもなりえない。
 江戸時代には、越後屋両替店の手代で芭蕉門の野坡に「十三夜更(ふけ)て亭主の衣配り」(百曲)の句があることから、主人が使用人に正月用の着物を配ったことがわかる。使用人は、藪入りの休暇をもらって帰郷することに加えて、歳末の衣配りを楽しみに働いたのだろう。越後屋呉服店主の三井八郎右衛門をモデルにした西鶴の『日本永代蔵』(巻一の四「昔は掛算今は当座銀」)では、「御祝言又は衣配りの折からは、その役人、小納戸がたの好みにて、一商して取りけるに…」とあるから、衣配りは商人にとって儲けのチャンスであった。
 思い出せば、子どもの頃、お正月になると親から、新しい靴か、ズボンか上着のどれかを買ってもらえた。これは、江戸時代の名残であったかもしれない、と今更ながらにして思う。

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延享元年〈寛保四年〉(1744)甲子 29歳 改元二・二一

  正朔吟
    いぶき山の御燈に古年の光をのこし、
    かも川の水音にやゝ春を告たり
1006
(とり) ( は) にはつねをうつの宮柱

寛保四甲子歳旦歳暮吟

訳文 鶏は羽をはばたかせて初音を上げて、羽で打つ宇都宮の宮柱。
季語 「鶏は…はつね(初鶏)」春。
語注 正朔吟…正月一日の吟詠。いぶき山の御燈…伊吹山(栃木市)の善応寺(廃寺)の燈か。かも川…釜川(栃木県宇都宮市)か。
解釈 「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ」(百人一首)のもじり。朝告鶏の鳴きまねをして関所の門を開けさせたという「函谷関」の故事をふまえて、清少納言は、鳴きまね(泣きまね)くらいではだまされないよ、の意をこめて詠んだが、初鶏の羽音ではいかがなものか、と笑いに転じた。また、羽ばたいて宮柱を打つことと地名の宇都宮を言いかけた面白さ。ここ宇都宮から新しい俳諧がはじまる、という意気込みが感じられる。
参考 巻頭三物の発句。署名「宰鳥」。

 『寛保四甲子歳旦歳暮吟』(寛保四年宇都宮歳旦帖)は、蕪村の処女撰集であり、はじめて蕪村号を名乗った集でもある。俳諧宗匠は、立机した翌年に歳旦帖を出すのがふつうだったから、蕪村は前年に宗匠立机したことになる。しかし、この集に続く翌年以降の歳旦帖は現存が確認されていない。出版されなかったのだろうと思うが、出版されていたとしてもヘンペンたる冊子だろうから、紙魚の栖と化したか鼠の糞にまみれて捨てさられてしまったものと思われる。
 蕪村が再び歳旦帖を刊行するのは、明和七年(1770)夜半亭を継いだ、翌八年の『明和辛卯春』であった。蕪村五六歳。寛保四年(1744)から数えて、27年目になる。若き日の蕪村は、関東・東北地方を遊歴し、宝暦元年(1751)三六歳で再び関西へ戻った。後年の『新華摘』からその様子の一端がうかがえるものの、若き日の蕪村は依然として多くの謎につつまれている。


年次未詳 元文二年(1737)〜寛延三年(1750) 22歳〜35歳


    青飯法しにはじめて逢けるに、旧識のごとくかたり合て
1007
水桶にうなづきあふや瓜茄

句帳(落日庵 句集)

訳文 水桶のなかで頷きあっているようですなあ。瓜と茄子がぽかりぽかり。
季語 「瓜茄」夏。
語注 青飯法師…雲裡坊。美濃派俳人。無名庵五世。宝暦一一年(一七六一)四月二七日没。六九歳。瓜と茄…冷やして食べ、ともに盆の供え物にする。闌更「蟻の来るばかりぞ墓の瓜茄子」(半化坊発句集)。
解釈 蕪村と雲裡坊は、ともに僧体。坊主頭の自分(蕪村)と雲裡坊を瓜と茄子に擬え、水桶にぽかりぽかりと浮かんでいるさまを「うなづき合う」と見立てたユーモラスな句作り。俳系を超えたふたりが親近感を抱いていたことをうかがわせてくれる。
参考 前書「青飯法師にはじめて逢けるに、旧相識のごとくかたり合侍りて」(落日庵)、句集は「法し」を「法師」と書くほか同じ。木導「撫子とうなづき合ふや百合の花」(水の音)。東写「かいま見にうなづきあふやゆりの花」(梨園)。

 蕪村と雲裡坊の交りを「水魚の交り」「管鮑の交り」に擬えて、この句から「瓜茄子の交り」と俳諧化して命名したいと思うが、いかがだろうか。
 美濃派を嫌い、舌鋒鋭く批判し、軽蔑さえしていた蕪村だが、雲裡坊とは、互いに点頭きあうばかりか、宝暦五年(1755)には丹後で一座して連句を巻いていた。この年、蕪村四十歳、雲裡坊六三歳。宝暦十年、雲裡坊は蕪村を九州の旅に誘ったが、蕪村は断り、同十一年夏、雲裡坊と京都で会した。この年、四月二七日、雲裡坊は急逝。蕪村は、雲裡坊門の俳人と一座して追悼半歌仙を巻き(烏帽子塚)、さらに十七回忌追善集『桐の影』にも追悼句を送っている(『蕪村句集』18・23・24・589参照)。
蕪村と雲裡坊は、俳系も年齢も超えて交際したのである。まことに「瓜茄子の交り」というにふさわしい…。


1008
かしらへやかけん裾へや古ふすま

句帳(明烏 評巻 安永六・一二・二大魯宛 句集)

訳文 あたまにかけようか、裾にかけようか、この古布団。
季語 「ふすま」冬。
語注 古ぶすま…古くなった夜具。古布団。
解釈 小さすぎる古衾をもてあます哀れさと滑稽さ。蕪村自身の自画像だっただろう。
参考 上五・中七「かしらにやかけん裾にや」(大魯宛)。「愚老三十年前の作に「かしらへやかけん裾にやふるぶすま」とわび寝の床に屈伸をさだめかね候」(同)。安永元年、この句を立句に几董と両吟歌仙。几董脇「霜に声あり我床の下」。蕪村・安永三「糊ひきて焚火得させむ古ふすま」(遺草)。調味「独ねやあるは涙のふる衾」(江戸通町)。

 この句は、安永六年(1777)大魯宛書簡にいう三十年前の作とすれば、延享四年(1747)、蕪村三二歳の作である。『新華摘』(寛政9 年1797刊)によれば、この頃の蕪村は、画の修業をしながら、関東地方を遊歴していたようだが、どんな日々を過ごしていたか、その暮らしぶりはよく判らない。
 先に引いた大魯宛書簡は、大魯の発句「足を折て頭に余すふとんかな」の評語だった。改めて全文を引くと「愚老三十年前の作に「かしらへやかけん裾にやふるぶすま」とわび寝の床に屈伸をさだめかね候。足を折て坊主あたまを憐たる才覚、愚が及びがたきところニ候」。つまり、私はすでに三十年前に、「古衾を頭にかぶるか裾を覆うか躊躇した」という句を詠んでいたが、「小さな蒲団にくるまって足を折り、頭を隠せないでいる」と詠んだあなたの句も同じような趣向ですが、とても及びません、というのである。おおいに大魯句を称賛したことになる。
 大魯は、安永七年十一月十三日に没した。享年四九か。大魯一周忌に出版された几董編の大魯句集『蘆陰句選』の序で、蕪村は「大魯はもとより摂播維(?)陽の一大家と呼れて、我が門の嚢錐なりし」と大魯の直線的な切れ者ぶりに言及している。その大魯は、あまりに切れすぎたためか、同門の人々としばしば悶着をおこす、トラブルメーカーだった。
しかし蕪村はその才能を愛した。蕪村の発句に、大魯の句を意識して詠んだと思われる句が少なくないのは、大魯の詩才を理解していたことの何よりもの証左である。


1009
川かげの一株づゝに紅葉哉

西海春秋

訳文 川の陰に群生する芦のひと株ひと株に、流れ寄りそって行く紅葉よ。
季語 「紅葉」秋。
語注 川かげ…川が折れ曲がって流れ、川辺の木々や芦などが生い茂って陰になった部分。川隈。
解釈 薄暗い川かげに、散った紅葉が寄りそって、明るくなって行き、やがては朽ちてゆくだろう時間の推移を感じさせてくれる。一株ずつの紅葉が印象的。
参考 『西海春秋』は寛延元年刊、江霜庵田鶴樹編。下総結城の阿誰らとともに入集。宗居「川くまや水をあやなす下紅葉」(我庵集)。

 江霜庵田鶴樹は、松木淡々の門人。安永七年十月五日没。享年未詳。現在では、この人のことがよく判らないが、明和八年(1701)に成立したと思われる諸国俳諧宗匠の名を表紙と裏表紙に記す、一風変わった『俳諧小槌』(小本)という俳書の「大坂宗匠名録」の筆頭に名前がみえる。江戸中期、大坂俳壇で大いに名前を知られていたのだろう。
 田鶴樹は、延享五年(1748)中の成立とされる連句で下総の阿誰や蕪村と一座しているから、この頃、関東を訪ねたのかもしれない。阿誰発句「紅葉のとぎれとぎれや瀧の音」に田鶴樹が脇「我を礫に群れし山雀」を付け、第三を蕪村が「月の芋武家は物毎やさしくて」と転じている(西海春秋)。
 蕪村は、三六歳の宝暦元年(1751)八月帰阪し、その翌年、東山双林寺における京都の宗匠丈石や練石らが主催した貞徳百回忌に参列して田鶴樹と一座して連句を巻いている(双林寺千句)。田鶴樹と蕪村は、この頃までの交流を確かめることができるが、その後、風交を結んだかどうかは判らない。


1010
秋のくれ仏に化る狸かな

新華摘

訳文 秋の夕暮れ、仏様に化けた狸よ。
季語 「秋の暮」秋。
語注 仏に化る…殺されたことの比喩。いたずらな狸の側に立って表現した。
解釈 結城の丈羽の別荘に滞在中の思い出。五月十四日から十八日にかけて、毎夜戸を叩いて眠りを妨げた狸が、里人に捉えられて殺されたという逸話をふまえ、その「心のいとあはれ」を感じ、一夜念仏して「ぼだい(菩提)」を弔って詠んだ作(新華摘)。
参考 光清「廻文/夜がふけばきぬたに狸ばけふかよ」(国の花)。

 この句を読むと思い出されるのは「肌寒し己が毛を噛木葉経」(『蕪村句集』27)である。こちらは狸が和尚に化けて木葉経(狸書経)を読む怪奇幻想だが、そうでなくとも淋しい「秋の暮」にいたずらものの狸が殺されてしまったというのは、あまりにも淋しい。けれど、狸が得意の幻述を使って仏に化けたのだ、という風に思い直すことで救いがある。
 この句をこんな風に読みながら、いつから狸は化けるようになったのだろうか、あるいはなぜ人は狸に化かされたいと思うようになったのだろうか、と気になりだした。

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1011
うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥

反古衾

訳文 鎌倉山を浮かれながら越して来なさい。夕千鳥。
季語 「千鳥」冬。
語注 うかれ越せ…浮き浮きしながら来なさい。太祇「うかれ来て蚊屋外しけり月の友」(太祇句選)。鎌倉山…鎌倉にある山の総称。相模(東海道)と鎌倉山は付合語(類船集)。「三河の国や遠江足柄箱根うち過ぎて…鎌倉山に入りしかば」(謡曲・千手)。
解釈 淋しさと寒さの象徴とされてきた夕千鳥への呼びかけ。宝暦元年に帰阪するに至った蕪村の喜びとすれば、その前年頃の冬の作となる。「うかれ越せ」の浮ついた表現が巧み。
参考 署名「釈 蕪村」。大魯「野諺/春が来た梅じや芝居じやうかれ人」(蘆陰句選)。

 夕千鳥は、冬の鳥で淋しげだから「浮かれ越せ」と呼びかけられてもしっくりこない。そこで思いついたのは「うかれ烏」。とすれば、すぐに歌舞伎「三人吉三廓初買」のお嬢吉三の「月も朧に白魚の篝も霞む春の空、冷てえ風にほろ酔の心持ちよくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽塒へ帰る川端で、棹の雫か濡手で粟、思いがけなく手に入る百両、…ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落し、豆沢山に一文の銭と違って金包み、こいつぁ春から縁起がいいわえ」の台詞が思い出される。
 けれど、まてよこの初演は万延元年(1860)だった。蕪村が見たはずはない。とすれば、「月さえて山はこずゑのしづけきにうかれがらすのよたたなくらんは」(新撰和歌六帖)が「浮かれ烏」の典拠か。しかし『新撰和歌六帖』は、寛元2年(1244)以降数年の間に成立したらしいが、流布していた歌集ではないから、これも見ていなかったと断じてよい。ということで迷路に踏み込んだが、今、引いた大魯句「春が来た梅じや芝居じやうかれ人」とこの前書「野諺」がヒントになる。厳密に言えば、大魯句は、「うかれ越せ」の蕪村句よりも後に読まれた句であろうが、「梅じゃ芝居じゃ」と浮かれ歩く人が、同時代にいたに違いない。まさしく今と変わらない。


1012
伐たをす木は其儘の落葉哉

反古衾

訳文 これから伐り倒す木はそのままの姿、落葉が散って行くよ。
季語 「落葉」冬。
語注 そのまま…葉をつけたまま。
解釈 落葉樹は、新しい季語節を迎えるために葉を落とすが、樹木そのものは生きている。落葉が降りしきる情景に焦点を当てて、まだ生きている木を伐り倒す非情と不条理を浮かび上がらせる。在色付句「伐たふす松のいはれをながながと」(談林十百韻)のような愛惜の思いも感じられる。
参考 蕪村・安永六「鷹が峰に遊びて樵夫の家にやどる/寒山に木を伐て乾鮭を烹る」(安永六・一一・二八東瓦宛、同年冬暁台宛)。

蕪村画・樵夫図  胸をはだけ斧を振上げた、樵夫を描いた蕪村の画がある。その画をみていると、樵夫に隠者の風格が感じられるから、不思議である。木を伐採するのは、山を手入れするためだが、「山にあせかく樵夫は、北風を負ひて晩に帰る」(海道記)という詩的な表現も好ましい。
 かつて、樵夫も、誇り高い職人だった。ところが、最近では、日本の木を伐採する手間賃の方が高くなってしまって、木が売れなくなったから、樵夫も誇りを失っているのではないだろうか。あるいは樵夫そのものがいなくなってしまったかもしれない。木を伐ることは、木の命を絶つことでもあったが、山を再生させることにつながっていた。
 職業に誇りをもつことは人としての誇りを持つことでもある。それなくして、里山をよみがえらせることはできないと思う。


宝暦元年(1751)辛未   36歳    改元一〇・二七

    妙義山
1013
立去ル事一里眉毛に秋の峰寒し

句帳(夜半叟 落日庵 句集)

訳文 立ち去ってから一里、眉毛のかなた仰ぐ秋の峰の寒々しさ。
季語 「秋の峰」秋。
語注 妙義山…上州(群馬県)にある鋭角的な山、信州(長野県)に隣接する。 立去ル事一里…漢詩文的表現。陶淵明「一去三十年 羈鳥恋旧林 池魚思故淵」(帰園田居五首 其一)。「今ハ即チ門司ハ豊前ニ属シ、海上去ルコト一里」(和漢三才図会・文字が関)。芭蕉「予又市中を去ること十年計りにして」(幻住庵記)。 眉毛…慣用的に「眉毛を読まれる」で心中を見透かされる。挙白「梅の香に眉毛よまるゝ野中哉」(みづひらめ)。不堪「一口で眉毛のちゞむしみづ哉」(金龍山)。
解釈 関東地方の遊歴を切りあげて上京した宝暦元年の作か。字余りの漢詩文調の硬質な表現によって、奇峰の険しさと秋の寒さが相乗効果となって、妙義山をふりかえって去って行く旅人の懐旧の情を垣間見させてくれる。
参考 前書「白雲山眺望」(夜半叟)、「信州妙義」(落日庵)、『句集』は同じ。下五「山寒し」(落日庵)。蕪村・安永五「所思/宗祇我を恋ふ夜眉毛に月の露を貫」(新虚栗)。

 妙義山は群馬県の富岡市・下仁田町・安中市にまたがる、金鶏山・金洞山・白雲山という三つの山からなる総称。標高1104といわれているが、もっとも高いのはどの山か、私は知らない。かつて信越線の車窓から、その奇異な姿を遠望できたが、長野新幹線からは眺めることができず、今では、高速道上信越自動車道の松井田妙義インターチェンジから、その魁偉な山容を見ることができる。
 江戸時代は、中山道松井田宿・安中宿・板鼻宿辺りから妙義山を眺望できただろう。そう思って、英泉・広重画の中山道六十九次(木曾街道六十九次)を見たが、妙義山が描かれていない…。不思議である。私の見方が間違っているのだろうか。


    花洛に入りてに
1014
秋もはや其蜩の命かな

杖の土

訳文 はやくも蜩が鳴きはじめる秋になりましたが、相変わらずその日暮らしで命をつないでいますよ。
季語 「蜩」秋。
語注  花洛…京都。 富鈴房…望月宋屋。巴人門。 その蜩…一峰「秋ふくる命はその日ぐらし哉」(続山井)。蜩と「京の町」は付合語(類船集)。「カナカナ」と頼りなく鳴く声が秋の淋しさを感じさせてくれる。
解釈 蜩と日暮らしを言いかけた常套的な表現を意図的に用いて、「私もその日暮らしで生きていますよ」とわが身を滑稽化した挨拶句。当時の蕪村の暮らしぶりをうかがうことができる。
参考 署名「東武蕪村」。

 この句を収載する『杖の土』は富鈴房宋屋撰。宝暦二成、同五刊。宋屋は元禄元年(1688)生れ、明和三年(1766)三月一二日他界。七九歳。早野巴人門で、三宅嘯山の師。『杖の土』は、芭蕉の「奥の細道」の旅を慕って東北地方を行脚した句日記。この集には、蕪村句「松嶋の月ミる人やうつせ貝」も収録している(1004)。
 宋屋が編んだ巴人一周忌追善集『西の奥』(寛保三年1843刊)によれば、師・巴人の死を宰鳥(蕪村)と雁宕が京都へ伝えたという。また、この句の前書から、蕪村が帰京した折―宝暦元年秋、宋屋を訪問したことが分かる。こうしてみると蕪村が京都と江戸の巴人の門人をつなぐ役割を果たしていたと見て良いだろう。
 宋屋の句集を『ひやうたん集』という。この集は、宋屋の門人嘯山・賈友編、雅因序(明和五年上旬)、出版は明和六年三月(奥付 京都平野屋善兵衛・橘屋治兵衛)。その巻頭には蕪村画嘯山賛の、老いてなお盛んな端倪すべからざる風貌の宋屋の肖像画が掲げられている。蕪村が同門(巴人門)の先輩として宋屋を敬愛していたことも疑いない。


宝暦二年(1752)壬申   37歳

    賀本卦
1015
苗しろや植出せ鶴の一歩より

瘤柳

訳文 苗代ができたよ。さあ水稲を植えなさい、鶴が一歩踏み出すように。
季語 「苗しろ」春。
語注 賀本卦…「ほんけをがす」。本卦は生れ年の干支。六十一年目に廻ってくる。ここでは一瓢の還暦の賀。苗しろ…田植え前の稲を囲って育てるところ。鶴の一歩…めでたい鶴が踏み出す一歩。其角「日の春をさすがに鶴の歩み哉」(続虚栗)。一歩…「百尺竿頭進一歩」(無門関)。
解釈 一瓢の還暦に送った賀句。これから水稲を植えて、やがて実りの季節に向かって行くのですね、と本卦帰りして再生することを寿ぐ寓意をこめている。
参考 署名「釈蕪村」。一瓢還暦賀集『瘤柳』は、宝暦二年三月刊。

 一瓢という俳号をもつ俳人は、江戸時代だけでも六人ほどいる。もっとも有名なのは、一茶と交流した一瓢(明和八1771〜天保一一1840)で、この人は僧侶(京都・本満寺、妙顕寺、江戸・本行寺住職)。蕪村が賀句を送った一瓢は、好山閣一瓢。孟遠門、近江人(新選俳諧年表)。宝暦二年に六一歳だとすれば、元禄五年(1692)の生まれだろうが、没年は分かっていない。
 『瘤柳』には、一瓢・虹竹・毛越・蕪村の四人で巻いたを収載している。発句は毛越の「杖になる花を見せけり六玉河」。連衆のうち虹竹は毛越の友人で路通門といわれるがどんな人かよく分からず、毛越自身も生没年未詳、俳系も良く分かっていない。ただし、毛越は『曠野菊』(寛保二年1742 西村源六 西村市良右衛門刊 西村新助彫刻)の編者で、同書の巻頭を祇徳との両吟歌仙で飾っているから、江戸座・祇徳系の俳人だっただろうと推察される。
 関東地方の遊歴後、帰京した蕪村は同門の宋屋(1014参照)を訪ねた他、毛越を訪ねた。毛越は大夢という別号をもつが、私見では同時代にもう一人大夢と号する伊勢派系の俳人がいて、その人と混同されることもあるので注意を要する。ともあれ蕪村が、毛越を訪ね、一瓢・虹竹と一座したのは、かれらと江戸で顔見知りだったからだろう。宝暦初年頃の江戸は、さまざまな流派の俳人がいて、互いに交流していたらしい(武江年表他)。
 毛越が編んだ『古今短冊集』の跋文を書いたのも、江戸で結ばれた縁によってだろうが、年記に「宝暦辛未年(元年)冬 東都嚢道人蕪村誌」とあるから、帰京後一二カ月の内に執筆したことになる。跋で蕪村が当時の俳諧宗匠たちを手厳しく批判していることに注目される(『蕪村句集』534ページ解説参照)。通常ならば、跋文では苛烈な批判など書かないので、かなり特異である。若き日の蕪村と激越な文章を跋に掲げた毛越は、当時の俳壇や俳諧宗匠の堕落を嘆き、本当の俳諧とは何であり、どうすべきかを真剣に考えていたのだろう。


宝暦四〜七年

1016
萩の月うすきはものゝあわれなる

年月未詳□屋嘉石衛門宛

訳文 萩に照る月、その淡い光があわれだなあ。
季語 「月」秋。
語注 萩の月…白萩を照らす淡い月光。芭蕉「一つ家に遊女も寝たり萩と月」(奥の細道)。樗良「はぎが上月にこぼるゝ萩白し」(樗良発句集)。ものゝあわれ…こころの奥底にわく情愛。「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山のと煙立さらでのみ住みはつるならひならばいかでものゝあはれなからん」(徒然草・七)。「恋せずはこゝろもなからましものゝあはれも是よりぞしる」(長秋詠草)。木導「撫子は色うすきほどあわれ也」(水の音)。
解釈 萩と月は伝統的な取り合わせ、芭蕉句をふまえた、うすきもの(はかないもの)へのしみじみとした情愛。
参考 大魯「夏草や花有ものゝあはれ也」(蘆陰句選)。

 「ものゝあはれ」は、本居宣長が『紫文要領』や『源氏物語 玉の小櫛』などの源氏物語論でいう平安朝の美学の代表。「あはれ」は「哀れ」「憐れ」などをふくむ情愛を言い、俳諧でも、古く「さるまなこにて花をみるころ/さほ姫や哀うち出さけぶらん」(守武千句)の付句や貞徳「哀なる事きかせばや子規」(犬子集)の発句など「あはれ」を詠んだ例句は、枚挙にいとまない。
 ところが、「ものゝあはれ」となると話は別で、芭蕉に「後家の秋ものゝあはれをとゞめたり」があると伝えられるが、この句は存義句、芭蕉の句ではないだろう。しかもこの句を収録する『俳諧一葉集』と『芭蕉句解参考』は、ともに文政十年(1827)の刊行。蕪村没後四十四年後だから、蕪村は知るはずもない。  管見では「ものゝあはれ」を詠みこんだ句は、参考に掲げた大魯の句以外は見当たらず、この蕪村句がその例とすれば、もっとも早い例となる。しかも大魯句は中七「花有るものゝ」だから、正しく言えば「もののあはれ」を詠んではいない。なお、蕪村と交流した伊勢派の俳人・樗良の自画賛に「ものゝあはれは秋こそまされ」の前書で「泣け/\と我をせめけり秋の風」があるが、これも句に詠みこんだものではない。
 こうしてみると蕪村がいかに斬新な言語感覚をもっていたか分かる…と言いたい所だが、この句の典拠―嘉石衛門宛書簡は、潁原退蔵編『改訂増補蕪村全集』(昭和8年出版)に収録されているものの、潁原氏以後原本を見ている方がいない。つまり偽簡の可能性もあるので、この句は、蕪村句ではない可能性もある。


宝暦八年(1758)戌寅   43歳

   追善
1017
十七年さゝげは数珠にくり足らず

戴恩謝

訳文 十七年忌を迎え、亡師にささげる感謝の思いをささげの数と同じ数の数珠で順々に数えても数え足りない。
季語 「さゝげ」夏。
語注 ささげ…マメ科。さやに丸い種子が入っている。種子はふつう十八個あると思われていた。正覚「垣ささげなるも十八土用干哉」(続山井)。
解釈 食物の「ささげ」を亡師に捧げる気持ちと言いかけた作。ささげの種子の数と同じ十八の数珠の珠数から、ひとつひとつ恩を数え上げても感謝の思いは足りない。掛言葉を用いた洒落。軽口をたたくほかない蕪村の悲しみ。
参考 宋屋撰『戴恩謝』(宝暦八年刊)は、巴人の十七回忌追善集。巴人「我宿とおもへば涼し夕月夜」を立句とする半歌仙中に雁宕句「撓(たわ)みたる身を帆にかけて花百里」があり、これに蕪村の「其石町の春の入相」付句がみられる。歌仙の連衆は他に宋屋・蝶夢・嘯山・武然・楚雀・几圭など。巴人は、寛保二年(1742)六月六日、他界(蕪村句集6)。享年六七。この年、蕪村二七歳。

 蕪村は二十歳頃から巴人の庇護下で、俳諧を学び、江戸石町に住み薪水を共にしたらしい。巴人がいなかったら、蕪村は「撓みたる身」のままで、俳諧師にも絵師にもなれなかっただろう。わが身をふりかえっても、つくづく恩師はありがたいと感謝するばかり。恩師のお名前を汚さないようにと願っているが、怠惰で不勉強なわが身を省みると、忸怩たるものがある。


宝暦十年(1760)庚辰   45歳

   麦竜舎のぬしは白雲山下の人なり。今や故園にかへるといへども、
   句はおのづから都の人の耳底にのこりぬ
1018
白雲の飛のこしなりそばの花

真蹟懐紙

訳文 白雲が飛び残した跡のようにさわやかな蕎麦の花。
季語 「そばの花」秋。
語注 麦竜舎のぬし…上州(群馬県)富岡の涼袋(建部綾足)門の俳人。雲郎。坂本治兵衛重由。寛政四年没。七一歳。白雲山…妙義山(群馬県)。
解釈 宝暦十年、麦竜舎雲郎は、北陸金沢を経て、上京。帰郷する折の送別句。芭蕉「三日月に地はおぼろ也蕎麦の花」(浮世の北)に対して、白雲山下からやってきた雲郎に対して、あなたの句は白いそばの花のようにさわやかに都人の耳底にのこりますよ、と挨拶。
参考 紫白女「しら雲にけふははまるや蕎麦の花」(田植諷)。

 ずっと昔、坂本雲郎のご子孫を富岡市に訪ねた。当主の坂本氏はお医者さん。お忙しいにも関わらず、ご先祖の俳諧資料などの書画・屏風を見せて下さった。この家に建部綾足が魚介類を描いた大作「海錯図」(屏風)や青年期の綾足の旅日記『紀行』(三冊)が伝えられていたが、青森県立博物館へ寄贈されたとのことであった。蕪村の懐紙は、貼り混ぜ屏風にあったように思う。その頃の写真を捜してみたが、みつからない。お名前を出してご迷惑になることを憚って出さないが、同行したN氏は、今や日本近世文学の泰斗。蕪村は芭蕉ほど蕎麦好きではないが、こうした懐かしい思い出も加わり、忘れられない一句である。


宝暦一二年(1762)以前 47歳以前

1019
我足にかうべぬかるゝ案山子哉

句帳(百歌仙 耳たむし 落日庵 句集)

訳文 自分の足に頭をぬかれている案山子よ。
季語 「案山子」秋。
語注 かうべぬかるゝ…足が心棒になっている案山子が崩れて頭に突き抜けている状態。
解釈 無用物となった案山子が、みじめに打ち捨てられているさま。「月夜に釜をぬかれる」(油断することのたとえ)を効かせて、得意の季節から落ちぶれた案山子に共感したのだろう。
参考 旨原編『百歌仙』は宝暦年間の成立。

 無用物となった案山子の哀れさをとらえた作だと思う。自損自壊(こんな四字熟語あっただろうか)、自暴自棄。無残な姿が身につまされる。


1020
順礼の目鼻書ゆくふくべ哉

句帳(松島道の記 耳たむし 落日庵 句集)

訳文 順礼が目と鼻を書いてゆくふくべよ。
季語 「ふくべ」秋。
語注 順礼…聖地・霊場を参拝してまわること。ふくべ…瓢箪。瓢。
解釈 ふくべに眼鼻を書くのは楽書。楽書と順礼は付合語(類船集)だから、珍しいことではないが、目鼻が描かれたふくべのまぬけ顔が想像されてユーモラス。
参考 蕪村・明和五「人の世に尻を据えたるふくべ哉」(句帳他)。

 十数年前頃、友人の勧めで、ふくべ(瓢箪)を栽培した。鈴なりに大小さまざまな瓢箪が出来、なかなかの豊作だった。瓢箪の種や果肉を出して乾燥させる作業は手がかかって面倒だったが、幸いにもほとんど友人がやってくれた。そうして出来上がった小ぶりの瓢箪に目鼻を入れ、中くらいの瓢箪には、頭や顔、お臍、手脚など人体を描いて、悦に入っていたら、友人曰く「下品」。なるほど、瓢箪そのもので十分面白いのにヘンな手を加えたものだと納得した。志賀直哉の『清兵衛と瓢箪』を思い出したので、できるだけ素直な形の瓢箪を保存しておいたが、世をすねたように曲がりくねった形の瓢箪も面白かった。湾曲した瓢箪は、中の種子や果肉を出すのがたいへんで、乾燥させないまま放擲されてしまったと思う。


1021
鳴ラし来て我夜あはれめ鉢たゝき

句帳(古選 落日庵 句集)

訳文 鉢を鳴らし来て我がさびしい夜をあわれんでおくれ。鉢扣よ。
季語 「鉢たゝき」冬。
語注 我夜…他人の夜に対していう。大魯「よ所の夜に我夜後るゝ砧かな」(続明烏)。鉢たゝき…空也念仏。一一月一三日の空也忌から大晦日まで念仏を唱え歩いた。
解釈 さびしいひとり寝をかこち、鉢扣に「あはれめ」と呼びかける命令口調がおかしみを誘う。
参考 其角「くり言を雛もあはれめ虎が母」(二つの竹)。召波「うづみ火に我夜計るや枕上」(春泥句集)。

 「我夜」は「我世」を転じた俳諧の言葉だろうか。つきとめかねている。思い浮かぶのは、藤原道長の有名な歌「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」(小右記)。「わが世」ならぬ「わが夜」も、まちがいなく私のものですが、満月どころか欠けた三日月夜ですよ、と洒落たものか・・・。愚見を捨てきれないでいる。


宝暦八年(1758)四三歳〜明和初年(1764)49歳

1022
そこ/\に京見過ごしぬ田にし売

句集(宝暦八〜明和初三・一八松波(召波)宛 落日庵)

訳文 慌ただしく散策して京都の名所を見過ごしてしまったね、田螺売りさん。
季語 「田にし」春。
語注 そこそこに…慌ただしく。適当に。几董付句「そこ/\に景を見て置塔の上」(続一夜松前集・第二十)。田にし売…田螺を売る小商人。小春「ものに似ぬ手桶のみもちて、春のながれの田にしをとり、わづかのあたひをもとむる者のすけることとて、酒のみかへる比のたのしび、いかならむとおぼへて/かろき身のわざやうき世の田にし売」(北の山)。
解釈 京都見物をかねて田螺を売ろうと上京した田螺売に心を寄せた作。しがない商売に心を奪われて十分に見物が出来なかった哀しみが伝わってくるが、上五「そこそこ」が深刻さを和らげ、おかしみを誘う。
参考 貞国「鯛売の跡から淋し田螺売」(俳諧其傘)。暁台「田にしうる声や竹田の痩女 と臥央がかづき出て、是におとの句あれといへるに/親なしと答ふ淀野の田螺うり」(暁台句集)。1023と併記(松波宛)。

 「田螺売り」が商売として成り立っていたのかどうか、実のところわからない。室町時代に成立したという『七十一番職人歌合』をながめていると、商人らしき人物として「鍋売」「油売」「ひきれ(挽入)売」「餅売」「帯売」「扇売」「白物売」「蛤売」「魚売」「弦売」「饅頭売」「法論味噌売」「硫硫箒売」「煎じ物売」「米売」「豆売」「豆腐売」「索(素)麺売」「塩売」「麹売」「灯心売」「葱売」「枕売」「畳紙売」「白布売」「直垂売」「苧売」「綿売」「薫物売」「薬売」「心太売」が登場しているが、田螺売は見られない。  今、私は延享元年(1744)に出版された版本で見ているが、室町期になった写本を江戸中期になって出版したのは、職人のなかに商人も含まれており、商売の基本は変っていなかったからだと思う。
 中世の「魚売」のなかでも鯛売りは幅を利かせていたのだろうと思われる。「田螺売」は、蕪村の時代に加わった新しい職かもしれない。参考で引用した貞国「鯛売の跡から淋し田螺売」(俳諧其傘)句から、肩身の狭い思いをしながら、鯛売りのあとをついて田螺を売り歩く小商人の姿を髣髴とさせてくれて、いとおしい。


1023
よく聞ば桶に音を鳴田にし哉

宝暦八〜明和初三・一八松波宛(落日庵 耳たむし)

訳文 よく聞くと桶のなかで鳴いている田螺よ。
季語 「田にし」春。
語注 よく聞ば―じっくり耳を傾けると。一井「能きけば親舟に打砧かな」(阿羅野)。岱水「よく聞けばがらをふむ霜夜哉」(続寒菊)。音を鳴く―悲しみの鳴き声をたてる。典侍藤原直子朝臣「の刈る藻に住む虫のわれからと音をこそなかめ世をば恨みじ」(古今集・一六)。南里「虫も又昼の音を鳴く月夜哉」(誹諧句選)。
解釈 田螺は、一笑「道のべや昨日の雨に田にし啼」(落葉考)、句空「たよりさへ奈呉江も暮て鳴田螺」(草庵集)、曾良「菜の花の盛に一夜啼田螺」(続雪まろげ)、暁台「田にし鳴を田のたむぽゝ打ほけぬ」(暁台句集)のように、道端や川辺や菜畑、田圃で鳴く。蕪村句は、これから売られて行く田螺が桶の中で鳴いているしみじみとした情景句。それを聞くしがない小商人として身過ぎする田螺売りの哀しみが、伝わってくる。
参考 中七「音をなく桶の」(松波=召波宛)。文雅「裏町や声見失ふ田にし売(続明烏)。1022を併記(松波宛)。

 現代の歳時記には「田螺鳴く」「亀鳴く」を春の季語、「蚯蚓鳴く」を秋の季語として登載されている。しかし、田螺も、亀も、蚯蚓も、鳴かない。鳴かないはずの虫や動物がいつ頃から鳴き、季語として定着したのだろうか、とちょっと考えてみた。
 もっとも古くから「鳴」いたのは、亀だろう。藤原為家が「川越の遠の田中の夕闇に何ぞと聞けば亀ぞ(の)鳴くなる」(夫木抄)と詠んで以来、亀は鳴き続けている。この歌は『俳諧類船集』にも引用されているので、江戸初期頃からよく知られていた。芭蕉が判者をつとめた『田舎句合』(延宝8年嵐雪序)では、「何を音にすぽん鳴らん五月闇」の句がみえる。芭蕉はこれを勝句として、その証歌に為家の歌を引いている。ただし、「五月闇」は夏だから、亀が鳴いた季節は夏ということになる。
 芭蕉の門人・乙州は、「亀の甲烹らるゝ時は鳴もせず」(ひさご)という発句を詠んでいる。これは亀の甲を焼いて吉凶を占う「亀甲占い」をふまえて詠んだ「雑」の発句―季節がない、いわば無季の句。乙州には「亀の甲捧る夏の氷かな」(孤松)の句もあるから、亀甲占いに凝っていたのだろう。ともあれ、亀甲占いは季節を限定して行った占いではなかったようである。なお「亀の看経」は、「亀が調子をつけて経を読むような鳴き方をすると伝えられることろから出たもの」(十七季)という。現代では、春の季語だが、これも無季だったと思う。
 さて、「田螺鳴く」は、先に示した一笑句「道のべや昨日の雨に田にし啼」が古い例だと思う。一笑は、承応2年(1653)生まれ、元禄1年(1688)三六歳で没。
 「蚯蚓鳴く」は、才丸(麿)の付句「露と波とに蚯蚓鳴くらん」(東日記)が早期の用例だと思う。才麿は明暦2年(1656)生まれ、元文3年(1738)八三歳で没。『東日記』は延宝9年(1681)に出版。才麿の付句(短句)は、露を詠みこんでいるから秋季だろう。やや後の時代に、風国「蚯蚓啼草津どまりや夏の月」(夏の月)の用例があり、蚯蚓が夏に鳴いた例もあるので、江戸時代には季語として定まっていなく、秋の季語として認知されたのは、明治以降だろうと思う。
 同じように、田螺と亀がいつから春に鳴くようになったかもよく分からない。ただし、文化文政期の俳人道彦に「田にし鳴亀なき頃は草わかみ」(蔦本集)の句があり、「草わかむ」を春の季語として用いたと思われるので、この頃から、田螺と亀は、春に鳴いたものかもしれない。
 なお、蓑虫は『枕草子』で「ちちよ」と鳴くとされて以降、鳴き声まで知られているが、もちろんこれも鳴かない。芭蕉の「蓑虫の音を聞にこよ草の庵」(あつめ句)ではないが、聞こえないはずの音を聴こうとするのは、「聞く耳」をもった人と心を交わす風雅の楽しみであった。


   文月八日 1024
おもだかの橋は引ずや銀河

自画賛(「大和文華」七八 落日庵)

訳文 沢瀉の橋はそのまま引かないでいるのでしょうか。天の川では。
季語 「おもだか」秋。
語注 文月八日…七夕が終わった翌日、淋しさを暗示。おもだか…沢瀉。水田や池沼などの湿地に自生し、白色三弁の花をつける。太祇「沢瀉や藻の上越る水の影」(新選)。
解釈 七夕の夜一夜だけ、鵲が翼を広げて天の川に橋を架け、織女を渡すという「鵲の橋」の伝説がある。八日には鵲の橋が引いてなくなってしまうが、沢瀉の橋はそのまま引かないようだ、と点在する銀河の星を沢瀉の花に見立てて、昨夜の七夕の余韻を愛惜した。
参考 野翁「沢瀉や道付替し雨あがり」(雑談集)。

 おもだかは、三枚の白い花弁からなる可憐な花、ひらがな・カタカナ表記は植物を連想させてくれるが、「沢瀉」「面高」と二様に漢字表記もできる。そうした場合、「沢瀉」と書けば家紋を思い出してしまうし、「面高」と書けば、人間臭い。天の川も「銀河」と書くとイメージが少し異なる。俳諧のような短詩型文学では表記も大事だと改めて感じさせられる。本格的な絵画の場合も、俳画のような軽いタッチの場合も、それに賛する蕪村の文字は絵画的で自在。漢字・かな表記を適宜使い分けているばかりか、筆蹟そのものもバランスが良く画と調和させている。蕪村の筆蹟も、また奔放で楽しい。


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(C) Tsukasa TAMAKI