俳句の森  >  蕪村句集  >  「春泥句集」序





【解題】
 「春泥句集」は、春泥舎召波の発句集。召波の息維駒が父の七回忌に当たり、四季類題別に編集して出版。半紙本二冊。序は蕪村自筆版下「洛下の夜半亭に於て六十二翁蕪村書/于時安永丁酉(六年1777)冬十二月七日」。本文は几董の版下。
 召波は、黒柳氏。通称清兵衛。享保二年(1727)に生まれ、明和八年(1772)十二月七日没。四五歳。町連歌師を務めたらしい。壮年期(寛保〜延享期1741〜48)頃、江戸で服部南郭(1683〜1759)に学び、帰阪後、龍草廬(1714〜1792)の幽蘭社に属し活躍、柳宏と号した漢詩人でもあった。明和三年(1766)、蕪村・太祇・召波で三菓社句会を開き、蕪村が四国へ行ったためにいったん中断したが、明和五年再開以降、熱心に参加した。
 蕪村は序で召波との問答体の形式をかりて「離俗論」を展開、召波の作風を「清韻洒落」と評し、召波の死を「我俳諧西せり」と嘆じている。なお、本文と注は、古典俳文学大系『蕪村集』所収の「春泥句集」(山下一海校注)に基づくが、適宜改訂、改行した。

(玉城 司)



【序文】
柳維駒(1)、父の遺稿を編集して余に序を乞(こふ)。序して曰。

「余曾テ春泥舎召波に洛西の別業(べつげふ)に会す。
波すなはち余に俳諧を問。
答曰。俳諧は俗語を用て俗を離るゝを尚(たつと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗ノ法最かたし。かの何がしの禅師(2)が、隻手の声(3)を聞ケといふもの、則俳諧禅にして離俗ノ則也。
波頓悟(とんご)す。却(かへつて)問。叟が示すところの離俗の説、其旨(そのむね)(げん)なりといへども、なを(ほ)是工案をこらして我よりしてもとむるものにあらずや。し(若)かじ彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るゝの捷径(せふけい)ありや。
答曰。あり。詩を語るべし。子もとより(4)詩を能(よく)す。他にもとむべからず。
波疑(うたがつて)(あへて)問。夫(それ)詩と俳諧といささか其致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠(うゑん)なるにあらずや。
答曰。画家ニ(5)去俗論あり。曰。画、俗ヲ去ルコト無他ノ法〔一〕。多読書則書巻之気上升、市俗之気下降矣。学者其(それ)慎旃哉(これをつゝしまんや)。それ画の俗を去だも筆を投じて書を読(よま)しむ。況(いはんや)詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや。
波すなはち悟す。或日又問。いにしゑ(へ)より俳諧の数家各々門戸を分ち、風調を異にす。いづれの門よりして歟(か)其堂奥をうかゞはんや。
答曰。俳諧に門戸なし、只是俳諧門といふを以テ門とす。又是画論(がろん)に曰。諸名家(6)不分門立戸、門戸自在其中。俳諧又かくのごとし。諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ、みづから其よきものを撰び、用に随て出す。唯自己ノ胸中いかんと顧るの外他の法なし。しかれども常に其友を撰て其人に交るにあらざれば、其郷に至ることかたし。
波問。其友とするものは誰ゾや。
答、其角を尋ね、嵐雪を訪ひ、素堂を倡(うた)ひ、鬼貫に伴ふ。日々此四老に会してはつかに市城名利の域を離れ、林園に遊び、山水にうたげし、酒を酌(くみ)て談笑し、句を得ることは専(もは)ラ不用意を貴ぶ。如此(かくのごとく)する事日々、或日又四老に会す。幽賞雅懐はじめのごとし。眼を閉て(7)苦吟し、句を得て眼を開く。忽四老の所在を失す。しらず、いづれのところに仙化し去るや。恍として一人自(みづから)(たたず)ム。時に花香風に和し、月光水に浮ぶ。是子が俳諧の郷也。
波微笑す。つゐ(ひ)に我社裏に帰して句を吐くこと数千。最(もつとも)麦林・支考を非(排)斥す。
余曰。麦林・支考、其調賤しといへども、工みに人情世態を尽ス。さればまま支考の句法に倣ふも、又工案の一筋ならざるにあらず。詩家に李杜を貴ぶに論なし。猶元伯(8)をすてざるが如くせよ。
波曰。叟、我をあざむきて野狐禅に引ことなかれ。
画家に呉張(9)を画魔とす。支麦は則俳魔ならくのみ。ますます支麦を罵て、進で他岐を顧ず。つゐ(ひ)に俳諧の佳境を極む。お(を)しむべし、一旦病にふして起ツことあたはず、形容日々にかじけ、湯薬ほどこすべからず。預(あらかじ)め終焉の期をさし、余を招て手を握て曰。恨らくは叟とともに流行を同じくせざることを。と、言終て涙潜(さん(潸))然として泉下に帰しぬ。
余三たび泣て、曰我俳諧西せり(10)。我俳諧西せり」

右のことばは『夜半茗話』といふ冊子の中に記せる文也。『夜半茗話』は余が几辺の随筆にて、多くもろもろの人と討論せしことを雑録したるもの也。しかるに其文を其ままにて此集の序とすることはまことに故あり。
此文を見て、波子が清韻洒落なるや、其ひととなりを知て、その句のいつはりなきことを味ふべし。かの虎の皮(12)を引かふ(う)だる羊に類すべからずといふことを、洛下の夜半亭に於て 六十二翁蕪村書。
     于時安永丁酉冬十二月七日


【註】
1 柳維駒
維駒は黒柳氏。召波の子。生没年未詳。享和三年(1803)、父の三十三回忌法要を営んだという。
2 何がしの禅師
白隠禅師。名は慧鶴、鵠林と号す。明和五年十二月寂、八十四歳。
3 隻手の声を……
「予が曰く、即今仏何れの処にか在る。平即ち露柱及び庭階を目視す、予直に手を拍して曰く、両掌相触れて声あり、却つて隻手の声を聞くやと云ひて一掌を立つ」(白隠・仮名法語)。
4 子もとより……
召波はもと服部南郭に学び、柳宏と称して龍草廬(公美)社中の詩人として有名であった。
5 画家ニ……
「筆墨間寧有樨気滞気。寧有覇気市気。滞則不生。市則多俗。俗尤不侵染。去f俗無他法……」(芥子園画伝・初集)。「画伝」は文人画の宝典とされた。
6 諸名家……
「……所謂諸大家者不必分門立戸。而門戸自在……」(芥子園画伝初集・成家)の「必」字を落して、「其」字を加え、やや違った解釈をしている。
7 眼を閉て
「開戸視之、不其処」(後赤壁賦)。
8 元伯
元稹と白居易。
9 呉張
呉偉と張平山。ともに明の画家で南画の正統に喜ばれない北宗画派の人。
10 俳諧西せり
前漢の了寛、田何に従って易を学ぶ。業成りて東に帰る。何曰く、易己に東せりと。この故事により召波が西方浄土に至ったのを歎じた。
11 夜半茗話
この書今伝わらず。
12 虎の皮を……
外美にして内その実なきを「羊質而虎皮」という。

 ○なお、黒柳召波「春泥句集」の本文は 俳句の森>中興俳諧句集 の中にあります


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