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俳句についてのよくある質問とその回答

俳句についての素朴な質問に明快に答えます。これを読めば、あなたのちょっとした疑問はたちまち泥沼的に複雑化して、わけわかんなくなります。

私がズバリ答えます!

(竹内睦夫)


俳句の作り方  俳句の上達法  俳句を読む  有季定型  季重ね  旧仮名づかい  スランプ?
歳時記について  添削ってなんだ  自然に興味がない



《質問》どうやって作れば良いのでしょう?

回答者:正岡子規

俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし。巧を求むる莫れ、拙を蔽う莫れ、他人に恥かしがる莫れ。

回答者:富沢赤黄男

我流、自己流がよろしいのです。

●どうも簡単過ぎる回答ですが、これしかないでしょう。
子規はまた「自分が面白いように作れ、人を面白がらせようと作るな」とも言っています。これも心にとめておくべきことでしょう。


《質問》どうすれば俳句がうまくなりますか?

回答者:小林侠子

俳句なんかうまくなっても、しょうがないじゃないですか。

●奇をてらってズレた回答を掲げたのではありません。
 結局、大してうまくはなりません、あなたも私も。もちろん、ある程度のコツをつかんで習熟することはできますし、段々拙劣な句は減って五七五を扱い慣れて来ます。でも「そこそこうまい俳句」は世間に満ち溢れているではないですか。そこを突抜けて一家を成すような才能は、あなたにも私にもありません。


NEW!この回答があまりに素っ気ないとの声が多いので、俳句の道について考察してみました。
   →毛主席語録に学ぶ俳句の道

《質問》俳句を読んでも、よく分らないのですが

回答者:向井去来

我が俳諧の上達するにしたがひて、人の句も聞こゆる物也。

回答者:高浜虚子

とかく世間の人は私ら仲間の句を見て平凡だという人が多いのであるが、それは見る人の頭が未だその句を解するまでの深さに至っていないからただ平凡なように見えるのである。

回答者:小西甚一

わたくしは『ホトトギス』系統の句に、あまり感心したことがない。しかし、その「なかま」の人たちの言によると、まことにりっぱな藝術のよしである。「なかま」だけに通用する感じかたでお互に感心しあって、これこそ俳句の精華なりと確信するのは御自由であるけれど、それは、平安期このかたの歌人たちが「作者イコール享受者」の特別な構造をもつ自給自足的共同体のなかで和歌は藝術だと信じてきたのと同じことであり、特別な修行をしない人たちが、漱石や鴎外やドストエフスキーやジイドやロマン・ローランなどの小説に感激する在りかたと、あまりにも違ってやしませんか。

回答者:天沢退二郎

ブランショの口まねをして言えば、「詩」は、「わからなさ」がたてるひびきにほかならず、もっと俗に言えば、「わからなさ」それ自体が、ごろんところがっているようなものだ。

回答者:大岡 信

日ごろ気づいていることで、面白いと思い、また、これだから俳句のよしあしなど簡単にあげつらえないと思っていることがある。それは、かつて読んだときに注意を惹かれなかった句で、二度目に読んでみると俄然光って見えてくるものがあるという事実である。ある句集を読み返すようなことがあると、必ずといっていいほどそういう経験にぶつかる。作者がたくさん同時に投げた石の一、二が、いわばずっと遅れて、わがおでこあるいは腹にどすんと当たるのである。

回答者:松尾芭蕉

故ある句は格別の事也、さもなくて聞得ざると有は聞えぬ句と思ふべし。聞えぬ句多し。

●俳句が分らないのには、三つの場合があります。作者に責任がある場合、読者に責任がある場合、そして、両者の間に縁がなかった場合です。
 芭蕉は「読んで分らぬ句は、ほとんどの場合駄句だ」と言っているのでしょう。あまり悩まず、放り出して次へ行きましょう。もしその句に縁があれば、また出会って、また違う読み方ができるかも知れません。


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《質問》有季定型でなければいけないのでしょうか?

回答者:高浜虚子

とにかく俳句は古典的のもので、それほど敏感に時代の要求を容れるものでないと思う。近代的の影響を受ければ受けるほど自滅に陥ってしまう、俳句は近代的でないところに生命があるんです。十七字と季題という鉄鎖に縛られている以上そう自由なことは出来ない。其所が俳句の短所でもあれば長所でもある。

回答者:飯島晴子

他人が、有季定型で一句を成そうと、無季非定型で一句を成そうと、その一句がわたしに何かを呼び覚ましてくれれば用があることになるし、そうでなければ用はない。有季定型でなければ何事も呼び覚まされないということは、体験から言っても無かったし、有季定型でも何事も呼び覚まさない場合もたくさんある。

回答者:石川 淳

俳句の小乗といへども、この道に游ばうとするものは決して御方便な原理で心を曇らしてはならぬ。有季よく無季よく、十七字よく二十何字よく、すべて虚心坦懐、春風來つて紅花發き秋風來つて黄英落つのおもむきで自分勝手に作るのが一番である。だが、季題及び十七字形といふ約束はさすがに俳諧傳來だけあつて、ずゐぶん滋味深いものなので、これをむやみに邪魔にしないはうが便利であらう。

●蛇足的解説。虚子にとっては、有季定型は俳句の定義です。それを不自由として打破るのなら、俳句を名乗ったりせずに新しい天地で存分にやるが良い、自由の名の下に俳句をいじっても自滅するだけだと言います。飯島晴子は、俳句の俳句たる根拠は形式や方法、理念にあるのではなく、一句一句の作品によってそのつど顕ち現れると考えているようです。石川淳は、俳句を作ろうとする過程で精神が自由に活動することが全てであると言っています。有季定型に囚われてはいけないし、むろん、「自由律」とか「無季俳句」という理念に囚われてもいけない。


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《質問》季重ねは何故いけないのですか?

回答者:古舘曹人

ルールというものは俳句に限らず一般的に言って、凡庸の規律ということができる。ルールを守れば凡人は誤りを犯さずに済むのである。しかし、ルールが天才を拘束するならば世に進歩はない。したがって、季重なりは凡人のルールなのである。

●われらは、紛うかたなき凡人です。しかしある一瞬天才に似ているようなことだって、ないとは限りません。そうでも思わきゃ、やってられませんよ。


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《質問》いまどき旧カナなんて!

回答者:田辺聖子

新仮名遣いの愚劣な字づらは、その代りに、あらゆる一切の権威や拘束や、制約をも、ふきとばしてしまうのである。教養のシンボルをふみにじった以上は、既成の文章の約束ごとも、足もとへ崩れてしまったのである。
愚劣なことが、平気で書けるようになった。文体が変ってくる。

回答者:田中克彦

日本におけるように、漢字やかなづかいという単なる手段の改変がその都度はげしい抵抗に出会うのも、慣れや有用性の観点からではなく、文字術の秘儀性に身をゆだねてしまった、あの感覚の根がまだ生き残っているからである。

回答者:辻井 喬

ふつう私たちは、言葉を情報伝達の手段と考えて使っていますが、情報伝達の手段から言語を解放する行為、それが詩だといえるでしょう。

●戦後生れが多数派となったいま、文語と歴史的仮名遣いは、おおかたの日本人にとっては三角関数みたいなものです。受験勉強で通り過ぎて以来、日常生活には用がない。今どきこれに依って何かを書くのは、極く少数の文筆家と少数派の歌人、そして多数派の俳人のみです。現在(おそらくは過去においても)、文語・歴史的仮名遣いを苦もなく自在に操れる人は、ほんの少数の言語エリートです。おおかたの俳句愛好家は大いに苦んだり、平気で間違ったりしています。
 そもそも俳諧が和歌連歌から分立したメルクマールは俗語の使用でした。限定され洗練された典雅な詩語の世界から解放され、日常の現実から言葉と素材を掴み出すことによって俳諧は成立しました。もし現代の俳句が日常のコトバとかけ離れた言語世界にいるとしたら、少なくとも俳諧の精神とは異なってきていることになります。
 口語表現はどうしても冗長になり易く、短い詩形にぴしりと納めるには文語を使いたい。しかし文語を現代仮名遣いで表記すると、どうもまぬけな感じがする。この辺に散文とは違った事情があります。虚子の口まねをして伝統だ守旧だと言ってしまえば片付きますが、散文と俳句を区別した二重の言語生活はやはり不自然さを覚えます。
 俳句という短い表現では、字づらの見た目も勝負の内です。私は歴史的仮名遣いの方がしっくりするように思うので使っています。しかし拘泥はしません。「あじさい」と「あぢさゐ」は断じて同じものではありませんが、同時に紫陽花以外のものでもありませんから。そしてもしかしたら、歴史的仮名遣いは一句を俳句らしく見せるためのキッチュな飾りに過ぎないかも知れません。
 私は、世代の交代とともに次第に現代仮名遣いが取って替ると予想していましたが、私よりずっと若い、次代を担う新主宰たちがみな旧カナ派であるところを見ると、そう単純なことでもないようです。


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《質問》スランプで俳句が全然できません。

●できない時は無理に作らないのが良い、というのがまっとうな回答です。別にそんなに苦労することはない。
 でも、皆さん苦労して作るわけですね、私もそうです。句会の予定があり雑誌の投句締切りが迫り、何とか作らなければならない。そういう事情だけでなく、やはり習慣的に作っていないと、作りたくなった場合に勘が鈍って調子が出ません。
 諸先輩に聞いてみると、〈散歩する〉〈好きな俳人の句を読む〉〈旅に出る〉〈アルコールを摂取する〉〈ともかく鉛筆を握る〉〈キングクリムゾンを聴く〉〈広辞苑を読む〉〈編物をする〉〈雑草のスケッチを描く〉〈甘い物を食べる〉〈妻の顔の見えない所へ移動する〉〈川を見に行く〉などなど、それぞれ工夫しているようです。
 集中力を高める方向よりは、気分転換して心を開放する工夫をする方が多いように思えます。
 不眠対策と似たようなもので決定打はありません。どうしても作らなければならないと思ったら七転八倒するしかありません。苦し紛れの句が必ず不出来とは限りませんから。


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《質問》歳時記の分類はおかしい!

●塩田丸男さんでしたか「歳時記に異議あり甘酒は絶対冬」というような句がありました。確かに、歳時記を読んでいると矛盾を感じたり疑問を持ったりします。春の部にある松毟と秋の部にある菊戴が同じ鳥だったりして。
 疑問は、季語の取捨の問題と、その各季節への振分けの問題とがあります。
 まず大切なことは、歳時記が何のためにあるのかということです。歳時記は教典でも六法全書でもありません。われわれの作句を縛るためではなく、われわれが良い句を作る便のためにあります。

 まず季語の取捨選択について。
 歳時記にある言葉がすべて季語としての機能を充分に果すと保証されているわけではありません。逆に、手元の歳時記にないから季語でないと決めつけることもできません。作者一人ひとりが季語について自分なりの見識を持つべきですし、自分の語感を当てにすべきです。
 問題は一句の中で季語として働くか否かです。歳時記は、自分の句が「無季でも季重ねでもない」ことを証拠立てるために参照するものではありません。(常に携帯してぼろぼろになった歳時記を自慢する俳人もいますが、むしろ一度は歳時記を卒業してみるべきです。)

 季語の季節別分類は、連句の時代には重要でした。ある季語が晩秋に属するのか初冬に属するのかは、これを共通の認識として決めておかなければ、連句の進行が混乱します。
 しかし1句独立の俳句では、それほど頭を痛める必要はありません。真夏の朝に朝顔を見たら、そのまま朝顔の句を詠めば良いのであって、朝顔は秋の季語だと悩むことはありません。出来た句は「朝顔の咲く頃」の季節感を示しているのであって、それを生活実感から夏と呼ぶか、暦法によって初秋とするかは二次的な問題です。(ただし、然るべき伝統的な理由があって秋季とされていることは心得ておかなければなりません。)
 歳時記の前提となっている伝統的な「季節観」と実際の「季節感」とは、往々にしてズレています。立春を起点に1年を24節季に分割する考え方は中国伝来のもので、もともと黄河流域の華北地方の気候によっていました。これを日本化して伝統的「季節観」が作られるのですが、その場合の日本とは主として近畿地方でした。当然、緯度と標高によって季節感はズレます。さらに旧暦と新暦の関係が混乱をもたらします。いずれにせよ人為的に区分すれば必ず矛盾を生じるのはやむを得ないことです。
 歳時記的な季節の秩序は、擬制です。歳時記が示すのは、個々の季節的現象をどのように見、感じるべきかという文化モデルなのです。
   秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる(藤原敏行)
 立秋となったからには是非とも驚かなければいけない。例えばこれが伝統的「季節観」です。いわば認識の型、構えのようなものです。歳時記は、これまで日本人が季節的事象をどのように見て来たかを示す、認識のスタイルブックです。
 歳時記の矛盾も非科学性も含めて、われわれはひとまずそれを受け入れ、学ばなくてはなりません。それは、いずれ歳時記を投捨てて自由に作句するためです。ひどく矛盾に満ちた物言いで恐縮ですが、そして結局、われわれが俳句を作るということは歳時記のメンテナンスを続けて行くことに他ならないのです。
 さて、歳時記と現実が齟齬する一例として、冒頭の甘酒を考えてみます。むかし6月1日に甘酒を作る行事があったり、暑気払いとして飲む習慣があったりしたそうで、ために夏の季語となっています。まあそのことは心得ておけば良いのです。現代の実際の感覚では冬の物です。
 いまにこれを冬季に移した歳時記が現れるかも知れませんが、いずれにせよ「甘酒」だけでは季が判然としないのが実状です。ですから、他の冬の季語と結んで句にするのが最も常識的なやり方だと思います。そうして作った句に対して「甘酒は夏だからこの句はダメだ」と言う人がもしあったら、「お流儀が違いますな」と澄ましていましょう。


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《質問》添削されるのが不愉快なんですが…。

●連句では添削が重要でした。連句の場合は、1句としての良さはもちろん、歌仙36句の小宇宙の中で、その場に必要な役割を果して次の句に繋ぐことが求められたからです。連句の進行を捌く宗匠は、単なる先生・先輩でなくプロデューサーもしくはコンダクターでした。全員が協同して一つの作品を作るという連句の場では、個々の作者が各々自分の個性を露に主張することは有害だったのです。だから原句の面影もないほど添削したり、甚だしくは全然別の句に差替えたりすることが普通に行われました。
 さて、俳句の時代です。現代では個性が大事だと言われます。
 自作を添削されると、たとえそれで句が良くなっても、何となく釈然としない場合があります。「ではこれは、一体誰の句なんだろう?」と。ましてや、自分の思いとかけ離れた句に改変されてしまった時はとてもせつなくなります。
 私も、時にやむを得ず添削する側に回ることがありますが、人様の句をいじるのも気の重いことです。責任のがれかも知れませんが、私はひとつの提案あるいは囲碁の感想戦のような感じでやっています。ですから、作者と対話できない場合は手を入れません。
 NHK俳壇の添削コーナーを見ると、感心します。原句のフリップが出るとすぐ頭の中で添削してみるのですが、講師の先生の添削とほとんど同じになります。つまり、よくあれだけ添削し易い句を選び出したなあと感心するんです。
 こんな風に言うとひどく傲慢に聞えるかも知れませんが、実際に出合う句は、直しようがないものが多い。表現の巧拙以前に、作者が「何に関心を持ったのか」という問題があります。ここをいじれば添削の範囲を越えて改作になってしまいます。陳腐通俗に見えようと、逆に理解不能なほどブッ飛んでいようと、作者が一番言いたいことを言っているのならば、私がお節介を焼くことはありません。そして、言いたいことを抑えた方が上手く行くことを知っている作者なら、添削の要などないのですし。
 さて、ご質問への回答です。添削というのは、その人のひとつの意見です。自分を信じて、人の意見もお聞きなさい。人の意見を聞いたために俳句が下手になるということはありません。自分が納得したことだけ心に留めれば良いことです。
 初心の頃「家毀す埃の中に青大将」という句を句会に投じたことがあります。これを読んだ先輩が、「埃の中を、とすれば蛇に動きが出るんじゃないか」と指摘してくれました。この例句が稚拙なので説得力に欠けますが、添削もこの程度ならばお互いに気持が良いんですがねえ。


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《質問》植物に興味がなく、虫なんか大嫌いです。

回答者:鶴見和子

   倒れてのち覚えし木の名花の名を数うれば友のふえたるがごと
というのは、花の名前や木の名前をどこで覚えたって書いておくと、名簿になる。友達の名簿をつくるでしょう、それと同じ。木や草の名簿ができた。私は病気になって、こういう隠遁生活をしたら、他人はさびしいでしょうといって下さるけれど、「数うれば友のふえたるがごと」で、私はこんなに友達がふえたのよ、という歌です。

回答者:江國 滋

親愛なる同病の士に告ぐ。俳句をはじめようと思ったら、歳時記の「植物」はもちろん、「時侯」だの「天文」だの「動物」だの、その手の季題を捨てて、まず「人事」の項目から入れば入りやすい。人事句というと、追悼句とか祝いの句のことだけだと考えておられるむきもおありかと思うが、慶弔句、贈答句に代表される、いうところの「挨拶句」は、「人事」のなかのほんの一部にすぎない。
 〔春〕雛祭、白酒、受験、落第、卒業、入学、入社、春闘、四月馬鹿、桜餅、花見……
 〔夏〕端午、菖蒲湯、更衣、ステテコ、団扇、プール、打水、ナイター、冷奴、水羊羹……
 〔秋〕月見、燈火親し、秋愁、虫売り、菊人形、新米、新酒、体育の目、赤い羽根……
 〔冬・新年〕除夜の鐘、寒見舞、霜焼、雪だるま、炬燵、年賀、雑煮、初夢、獅子舞……
こんなぐあいに「人事」の項日から身近な季題を拾い上げて、とりあえず十七文宇の中に詠み込んでしまえば、ひとりでに俳句になる。やさしい入口から入つて、しばらく取組んでいれば、そのうちにいやでも自然を詠まないわけにはいかなくなつてくるし、なんとなく詠めるようにもなつてくる。
自然、自然、とあまりにも強調されすぎて恐れをなす、私と同タイプの人のための、以上は安心材料である。

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