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千曲川のうた

上田電鉄別所線



雪解/橋本多佳子  あんず/水原秋桜子  さゞれ石/万葉集東歌

はこべ/小林侠子  君が代/式子内親王  青千曲/斎藤 史

遠桜/能村登四郎  水上/藪田義雄    林檎畑/伊東静雄

断崖/福田蓼汀   秋風/相馬遷子    狼煙/鷲谷七菜子

月/山崎方代    舟歌/太田水穂    稲架/栗生純夫

遊子/島崎藤村   しら雪/順徳院    春日傘/加藤三七子

千曲川/津村信夫  桑枯/森 澄雄    桑解く/東福寺薫

桑の道/鈴木花蓑  千鳥/土屋文明    鮠/半田順子

梅干/森 澄雄   登高/鷹羽狩行    蝉/寺田寅彦


(竹内睦夫)


雪解

よろこびに合へり雪解の犀千曲  橋本多佳子

 千曲川は秩父山系甲武信岳に源を発し長野県を北上します。佐久、上田、長野の盆地を貫いて流れ、長野市で犀川と合流すると、新潟県に入って信濃川と名を変え日本海に流れ込みます。総延長367キロに及ぶ日本一の長流ですが、千曲川と呼ばれるのは源流から中流域までということになります。
 掲句は犀川と合流する長野市落合橋あたりの情景。雪代にささ濁る二本の奔流が、互いによろこびながら合一しています。春の生命力溢れる河を、エロスの感覚でとらえた表現と言えるでしょう。


雪代の光れば天に日ありけり   多佳子

雪解犀川千曲の静にたぎち入る  多佳子

鱗甘し雪解千曲の荒鯉なり    多佳子

雪代の嵩となりをり千曲川    東福寺薫

夜は夜の雪代の音千曲川     海野貴美子

雪解川合ふ間際まで千曲やさし  山口誓子



あんず

杏咲き雪代さそふ千曲川     水原秋桜子

 平成15年、更埴市・戸倉町・上山田町が合併して「千曲市」が誕生しました。合併というと、とかく旧町村名から1字づつ取って繋いだ奇ッ怪な名称になりがちですが、「千曲市」は穏当なネーミングだったと思います。その千曲市の森地区は「一目10万本の杏の里」として知られています。杏の花も美しいものです。森地区に限らずこの辺は杏が多く栽培され、昔はどこの家の庭にも杏の木がありました。二つ割にした杏の実を蚕の籠に並べて干し杏を作ったりしていて、お婆さんが蠅を追っている情景などは幼時の想い出に残っています。
 今はだいぶ少なくなったようですが、花時になると、あ、ここにも杏の木があったのかと気付かされます。
 秋桜子の句は、杏の白い花と雪代に濁る千曲川の流れとを取合わせています。季重ねですが、この両者を対照するためにあえてそうしたのでしょう。微妙で美しい色彩感覚です。



さゞれ石

信濃なる筑摩の川のさゞれ石も君し踏みてば玉と拾はむ

                     万葉集・東歌

信濃奈流 知具麻能河泊能 左射礼思母 伎弥之布美弖婆 多麻等比呂波牟


 千曲川を詠んだ句歌といえば、やはりこの歌を見ておかなければなりません。この歌が知られることによって、千曲川が「歌枕」になったからです。歌枕としての地名は単なる地理的名称ではなく、歌語としての美的幻想を帯びることとなります。後にさまざまの詩歌に詠まれる千曲川のイメージは、たとえ無意識的であってもこの歌と遠く結びついているのです。
 この一首は、千曲川の河畔に生まれ育ったものには、いつ覚えたともなく知っている親しい歌です。私はこれを、恋を失った悲しみの歌だろうと漠然と思っていました。恋人が死んだか、夫が防人として筑紫かサマーワあたりへ行かされたかした状況で、小石を愛の形見としようという意味なのだろうと。
 ある時、これは河畔に住む女性が対岸の男性に呼びかけた相聞歌だという説を読みました。「あなたが河原の石を踏んで私の所まで来て下さるなら、私はその愛を受け容れましょう」という読みです。素人の私にはその当否は判りません。結局「踏みてば」という仮定条件句を「もしこの石が、あなたの踏んだものなら」と読むか「あなたがもしこの石を踏めば」と読むかによるのでしょう。千曲川の両岸に住む男女の恋の駆引きの方が、万葉らしくて面白いように思われます。
 いずれにせよ、恋しい人が踏めばただの小石も玉になるというシンプルなレトリックは、現代人の心にも真っ直ぐに届いて来ます。
 古代中国に宝石だらけの山がありました。よそで売れば莫大な値の付く宝石がごろごろしているのですが、そこに住む人々はただの石として何の価値も感じておらず、子供が投げ合って遊んでいました。かの山の玉を石に変えたのは希少価値の喪失という経済原理であり、こなたの川の石を玉に変えたのは愛の幻想でした。そして人間にとって幻想は時に現実より大切なものです。


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はこべ

はこべらは千曲真砂に埋れ萌ゆ   小林侠子

 河原の砂地から萌え出たハコベが、春風に吹寄せられた砂に埋れそうになりながら緑の葉を拡げています。ハコベは春の七草に数えられているとはいえ、ありふれた雑草です。しかしその柔らかな草が湧き出すように萌える様は、まさに春の到来を感じさせます。さらさらと乾いた白砂を背景としたことで、その瑞々しい緑の生命力が強く印象づけられます。念のため書き添えると「はこべら」はハコベの古名であって「ハコベ等」ではありません。
 若い時代の作で、作者は後年、この頃の句には古語を頻用する癖があったと回想しています。「はこべら」や「真砂」にもややそんな傾向があるかも知れませんが、この言葉遣いによって、細やかな観察句が古格を帯びた表現を得ています。声調の緊密を好んだ侠子らしい句です。



君が代

君が代はちくまの河のさざれ石の苔むす岩と成つくすまで

                      式子内親王

 新続古今和歌集巻第七・賀歌。現在日本国歌ということになっている「君が代」とそっくりです。「君が代」は江戸時代初めの隆達節の歌詞に、明治時代に宮内省が曲をつけたものですが、その隆達節の元は古今集にありました。

我君は千世にやちよにさざれ石のいはほと成て苔のむすまで

              (古今和歌集巻第七賀歌・読人しらず)

 式子内親王の歌は当然この一首を踏まえています。賀歌は天皇や貴人の長寿を言祝ぐという儀式的、呪術的な歌です。個人の心情を吐露する歌とは違うので、そこではあまり個性を主張したりしてはいけない。むしろパターンにきちんと納っていることが重要です。だから、模倣だの盗作だのの論議は意味がありません。実際、他にも類似の賀歌が幾つもあります。


君が世を何にたとへんさざれ石のいはほとならん程もあかねば 拾遺和歌集

君が代は長居の浦のさざれ石の岩ねの山と成はつるまで    新千載和歌集


 式子内親王は新古今時代を代表する天才歌人です。ここに掲げた歌は彼女の歌の中では凡作に見えますが、賀歌というものの性質ですからやむを得ません。
 とはいえ、似たり寄ったりの歌にもそれぞれ微妙な独自性がある筈です。この歌では、慣用句である「さざれ石が岩となる」のを千曲川の情景とした点でしょう。そして「千曲川のさざれ石」と言えば当然万葉集東歌の一首が思い起されるので(「さゞれ石」参照)、この紋切型の儀礼的な賀歌が、にわかに相聞のニュアンスを帯びて来ることとなります。
 相聞とは言っても、まあ、お誕生日パーティーに招かれてお祝にラブソングを唄った、みたいな感じかと思います。

 全く余談です。戦後のことですが、NHKラジオは毎晩12時に君が代を流して放送を終了していました。内田百間はわざわざラジオをつけて、それを聴きながら酒を飲むのが日課でした。君が代の曲が好きだったのです。しかし彼は、強制的に聞かされるのは大嫌いでした。戦争中、音楽会の最後には君が代が演奏され、それが終るまで聴衆は帰れなかったそうです。百間は我慢ならず、演奏が始ろうとした時最前列の席を起って外へ出てしまいました。ドアの所で係員に制止されたのですが「小便だ!」と言って突破したのです。このエピソードは、なんか好きです。
 百間の師である夏目漱石は、西園寺公の招待を断った際に「時鳥厠半ばに出かねたり」の句を詠みました。師弟似たようなことをしてますね。



青千曲

蕁草のごとき神経を刈りはらひ汗したたれば 青き千曲川

                       斎藤 史

 蕁草(いらくさ)は葉と茎に小さな刺をつけています。足や腕に触れると細かい引っ掻き傷ができて、これが痛い。刺に酸を含んでいるのです。萱の葉なら皮膚がすっと切れて血が滴りますが、蕁草はちくちくといつまでも痛痒く、隠微な悪意といった感じ。
 自分の神経を蕁草の藪に譬えているわけですが、あるいは「苛立つ」という言葉の音に導かれた比喩かも知れません。いずれにせよ、これを刈り払うのは大変な作業でしょう。
 斎藤史は東京生れ。昭和20年に長野に疎開し、そのまま住み続けました。


山棲みの雪に埋れてあるときは日当るみやこ眇目して見つ

遠流無帰われと課ししにあらねどもこの山国に棲みなれにけり


 求めて信濃に来たのではなく、罪を得て流されたような思いで暮しているうち、いつか住み慣れてしまった。信濃の山河は、愛憎の入交じる感情をかきたてるものとして彼女の目に映っていたのでしょう。掲出した歌における千曲川は一種の救いの風景として現れているように見えます。一拍の空白の後に置かれた字余りの結句を、そう単純に読んで良いかどうか迷いが残りますが、やはりそれは救いであったと読んでおきたい。


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遠桜

細目して見る千曲川遠ざくら   能村登四郎

 千曲川のきらめく流れのむこうの山裾に、ひとむらの桜がけぶるように咲いている。そんな情景でしょう。物理的に眩しいということもあるでしょうが、むしろ、この景を深く心に貯えようとする心持が旅人の目を細めさせているのです。
 平明な句ですが、ああ、こんな景色をこんな風に見たことあるなあと思わされます。既視感を与えるのは優れた俳句であることの証です。(俳句自体がどこかで見たようなのだと困りますが。)
 同じ時の作に


ゆく春の濁りも加へ千曲川


があります。「も加へ」は随分生真面目な表現だなあと感じますが、流水の柔らかな濁りに重ねられた惜春の情は共感を誘います。
 能村登四郎は度々信濃を訪れており、姨捨長楽寺に次の句を刻んだ句碑があります。


枯れ果てゝ信濃路はなほ雪の前



水上

その水を手に掬び その水に指を浸して
  我は知る 水のこころを
  天霧らふ甲武信ヶ岳の 苔伝ふ水のしたたり
  集りて流れとなるを 水上はかくも遙けし…
                       藪田義雄

 混声合唱組曲「千曲川の水上を恋ふる歌」の1曲目「水上」の冒頭部。
 作詞者藪田義雄は明治35年神奈川県生まれ昭和59年没、詩作を北原白秋に学びました。校歌を多く手がけていますので、「うちの校歌この人だった」という方もあるかと思います。
 むかしこの組曲を歌ったのですが、どの曲もティーンエイジャーには随分難しい歌詞でした。言葉は平明ですが、叙情的な千曲川讃歌ではなく、人生論的というか宗教的というか、言葉を解釈してみても詩は指の間から流れ落ちてしまいます。
 川を人生の寓意とする表現は幾らもありますし、実際川を眺めていると人は来し方行く末のことなど思うものです。この作者も千曲川はわが生だと言います。そしてその源へのあこがれを歌うのですが、そこには仏と母がいます。そしておそらく仏と母は重なり合いながら、彼の魂のふるさとを守っているのでしょう。
 むろん以上のような「解釈」は私の勝手な屁理屈に過ぎません。
 芭蕉は「松のことは松に習へ」と教えましたが、われわれも川を知るにはその水に指を浸してみるしかないのでしょう。
 なお、むかし歌った記憶によって書いていますので、上掲の詩の表記は正確ではありません。



林檎畑

遠いお前の書簡は
  しばらくお前は千曲川の上流に行きついて
  四月の終るとき
  取り巻いた山々やその村里の道にさへ
  一米の雪がなほ日光の中に残り
  五月を待つて桜は咲き
  裏には正しい林檎畑を見た!
  と言つて寄越した
                       伊東静雄

 「晴れた日に」より。遠くから手紙を寄越した「お前」は、実はこの詩人の半身なのです。詩人のオルター・エゴが彷徨しているのですが、ご本人宛に手紙を出すというのが凄いですね。
 半身は信濃の山里で遅い春に出合ったようです。そのことは、残された半身である詩人にも何か新しい展開をもたらすかも知れません。しかしそのためには「正しい林檎畑」の正しさとは何かを知らなければならないように思えます。


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断崖

枯桑に断崖どつと千曲川   福田蓼汀

 千曲川中流域の地形はいわゆる河岸段丘をなしています。太古からの水流や水量の変化のために、昔の河によって削られた崖が雛壇状に重なっているのです。かつての河岸が今は高台となって○○丘の地名で呼ばれ、現在の千曲川は両側を堤防でがっちり固められて盆地を縦断して行きます。
 この句の断崖は今の千曲川に直接落込む切り岸です。佐久あたりの景でしょうか、河にせりだすような崖の上の桑畑。葉を落した細枝が連なって天を指しています。その蕭寥とした桑畑が突然途切れると、崖下深く藍色の冬千曲が流れています。「どっと」といういわばありふれた擬態語が、良く活かされています。


蕎麦畑や嘗つて千曲は此の崖下   久米正雄


こちらは段丘上部の崖。あの遠くに見える千曲川もかつてはここまで満々と水を湛えていたのか、という驚き。



秋風

秋風に波透きとほる千曲川  相馬遷子

 この澄んだ川波は、千曲川の実景であると同時に作者の心象風景のようにも見えます。
 相馬遷子は佐久の人。秋桜子門で、師と同じく医師でした。佐久の自然風土を愛情籠めて詠み続け、「山國」「雪嶺」「山河」の3句集があります。特に「山河」後半の句は「わが病わが診て重し梅雨の薔薇」という癌との闘病生活の中で詠まれた句で、心に沁みます。
 その病中吟、自分の死を鋭く意識しつつ詠まれた句に


わが山河まだ見盡さず花辛夷


があります。遷子の山河は佐久の地、その核となるのは浅間山と千曲川だったでしょう。


千曲川水みどりなり櫻咲く

枯るる中藍たぎつなり千曲川

雪の嶺地底の色の煙噴く

息荒く浅間颪にまむかへる


 昭和51年没。その前年、死を覚悟して詠んだ


冬麗の微塵となりて去らんとす


はまさに絶唱。愛誦する人の多い句です。



狼煙

のろしめく一火や雪の千曲川  鷲谷七菜子

 河原か、対岸の畑か、ともかく白一色の雪景色の中に炎と煙が見える。むろんそれは野焚火に過ぎないのですが、一種の緊張感のようなものを伴って目に入ってきます。
 かつて武田信玄、上杉謙信さらに遡れば木曽義仲もこの川沿いに軍を進めました。しかしそのような歴史的な連想が「のろし」の比喩を生んだ訳でもないと思います。あの煙は誰かに何かを伝えようとしているようだ、そんな感じがしたのでしょう。火をひとつ置くことによって、風景はいよいよ寒々としています。


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昂然と月の真下をひたひたと千曲の河は流れている

                      山崎方代

 方代の歌は独特の口調を持っています。飄々とした口語調が多く、自由律かと思い指を折ってみるのですが、ほとんど定型を外してはいません。ただ歌の最後が用言であることが多く、しばしば字足らずや字余りになっているようです。すなわち、言葉が見得を切ることが少ないのです。歌は平明率直ですが、単純ではありません。
 この一首は月と千曲川だけの構図でしかもほとんど単色で描かれていますが、それだけに河の存在感が厳しく迫ってきます。



舟歌

その岡を東にめぐる千曲川茨野におこる欸乃のこゑ

                      太田水穂

 随分難しい字を遣うものですが、欸乃はアイダイと読んで「舟歌」の意味なのだそうです。ここではフナウタと訓ずるのでしょう。
 現在の千曲川は水量も多くなく、橋ありダムありで船の運航はできません。川漁師さんの小舟や、たまにカヌーを見掛ける程度です。しかし昔は通船があって利用されていました。江戸時代に、越後の年貢米を江戸に運ぶルートとして千曲川水運の企図があったのですが、難所が多くてうまくゆかず、運行できたのは一部分だけでした。北信濃では飯山・須坂間を結んだ太右衛門船、松代藩の藩営船、善光寺町の厚連船などが就航し、主として米と塩を運んでいました。
 明治になると民間の通船会社ができて飯山から上田の間で営業しましたが、明治21年に信越線が開通してからは次第に衰退してしまいました。島崎藤村「千曲川のスケッチ」には、藤村が豊野から飯山まで川船で旅したことが記されています。明治の末のことです。
 水穂の唄は明治30年代の作。その頃の情景は想像してみるしかありません。昭和の俳人に


春障子千曲欸乃満たしたる  加倉井秋を


という句があり、おそらく水穂の歌を意識して詠まれているのでしょう。この作者も「千曲川の舟歌」を聞いたのでしょうから、今でも伝承されているものかも知れません。しかし私は地元にいながら寡聞にして知らないので、ご紹介できず残念です。



稲架

稲架解けばすなはち千曲奔騰す  栗生純夫

 栗生純夫は臼田亜浪の高足として長野の俳壇に重きをなしました。まさに土着の俳人として北信濃の風土を詠み続けた人です。
 人びとの暮しの真ん中を流れる千曲川の力強さ。この句からは強い気合が感じられますが、純夫を知る先輩の話では、実際なかなか気性の激しい人だったようです。



遊子

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ
  緑なすはこべは萌えず 若草も籍くによしなし
  しろがねの衾の岡辺 日に溶けて淡雪流る
                      島崎藤村

あたたかき光はあれど 野に満つる香りも知らず/浅くのみ春は霞みて 麦の色はつかに青し/旅人の群はいつか 畠中の道を急ぎぬ
暮れ行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛/千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ/濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む

 五木ひろしの唄う「千曲川」を作詞したのは山口洋子ですが、彼女はそれまで千曲川を見たことがなかったといいます。彼女は一枚のモノクロ写真とこの藤村の詩から得たインスピレーションによって詞を書いたのでした。いわば藤村の詩が「本歌」として働いているわけですね。
 山口さんに限らず「千曲川」といえばこれを思い出すという方は多いことでしょう。小諸懐古園の奥にこの詩文を刻んだ碑が建てられています。その先の石段を登ると、崖の上に四阿があって千曲川を展望できます。しかしそこから見える千曲川はかなり無惨な状態でして、別の意味で遊子悲しむという感じ。残念ながらお勧めできません。


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しら雪

ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰のしら雪

                         順徳院

 順徳院の父親は後鳥羽院だったわけで、こんな凄いパパの息子であるということは結構キツかったのではなかろうか。父とともに倒幕を企てた承久の変で破れ、後鳥羽院は隠岐へ順徳院は佐渡へ配流。元天皇親子がクーデターを起して島流しという異様な事件でした。
 この歌は佐渡へ流されて10年ほど、30代半ばの作。想像で詠まれたものでしょう。「消えていくか」には「行くか」と「幾日」が懸けられていますが、この技巧は小うるさいものではなく、平淡で感じの良い歌です。こののびやかで美しい調べ、そして美しいイメージ。現実には雪解け時季の川は濁って荒々しいのですが、そんなリアリズムは要らないのです。



春日傘

春日傘千曲川の石を見てゐたる    加藤三七子

 雪もすっかり消え、明るい午後の日差しに河原の石さえも春めく頃。それにしても、水でもなく川岸の風景でもなく、石を見ているというのです。
 万葉以来の「千曲川のさざれ石」という連想は当然作者の脳裡にあったでしょう。そこからこの句を理解しようとすれば理におちるけれど、石を見ながら恋人の影を幻視しているのかも知れないとも思えます。そんな風に感じるのは春日傘のせい。日傘は、その内に身を隠しつつ同時に存在をアピールするのであって、油断の出来ない小道具ですね。



その橋は まこと ながかりきと
  旅終りては 人にも告げむ
  雨ながら 我が見しものは
  戸倉の燈か 上山田の温泉か
  若き日よ 橋を渡りて
  千曲川 汝が水は冷たからむと
  忘るべきは すべて忘れはてにき
                  「千曲川」津村信夫

 おそらくこの橋は戸倉駅から上山田温泉へ向うとき渡る大正橋でしょう。津村信夫は明治42年神戸生れ、昭和19年没。今の若い人は、…なんて言っている自分に愕然とするけれど、今どきの若い人達は津村信夫を読むのでしょうか。
 信濃に縁が深く多くの作品に歌っていますが、その始りは軽井沢に避暑に来たことでした。彼は裕福な名家に生まれ、詩と恋愛に青春を過して若死しました。「忘るべきはすべて忘れはてにき」は壇ノ浦で死んだ平知盛の「見るべきほどのことは見つ」を思い起させます。



桑枯

千曲川磧の先の桑も枯る       森 澄雄

 河原は荒涼と枯れ尽し、更にその先の桑園も枯れている。桑がこの冬枯の景の焦点となり、また作者の旅情に形を与えています。



桑解く

桑解けば風荒びくる千曲川      東福寺薫

 冬を前に葉を落した桑の細枝を縄で括ってひとまとめにするのが「桑括る」で秋の季語。春になってこれを外すのが「桑解く」ということになります。早春のまだ風の寒い頃の情景。


桑解くや瀬音高まる千曲川   丸山哲郎


という句もあります。


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桑の道

千曲川心あてなる桑のみち      鈴木花蓑

 河畔一面の桑畑です。枝も伸び葉が茂って旅人の視界を遮っている。行くべき道が良く分らないが、まあこっちだろうと決めて歩き出そうとしているところ。養蚕が春季となっている関係から桑も春の季語ですが、現実の景としては夏、少なくとも初夏の感じだろうと思います。
信濃での作かどうか確かめていませんが、虚子にも


岐れ道いくつもありて桑の道


の句があります。
 桑の句をいくつか掲げてみましたが、昔は養蚕が盛んだった。非農家に育った私でも蚕の匂いや腕を這上る感触は覚えているし、繭を作り始める蚕が宙をまさぐるように頭を振るしぐさは目に浮ぶ。そして、ああ、蚕時雨の音もはっきりと耳に残っている。



千鳥

信濃ぢの千隈の川のゆふ闇を行方も知らに千鳥しばなく

                        土屋文明

 文明はアララギの重鎮で万葉学者としても知られています。「知らに」とか「しば鳴く」というのは万葉集に見られる言葉です。夕暮時の川辺で聞きとめた千鳥の声をゆったりと歌って、旅情豊かな一首ですね。
 水辺の鳥ということから俳句では千鳥を冬の季語としています。しかし千鳥にも渡り鳥もあれば留鳥もあって、実際はそう単純ではない。文明が会ったのはおそらくコチドリだろうと思いますが、さて季節はいつ頃だったのでしょうか。



鮠寄せの石に水鳴る千曲川      半田順子

 ハヤ寄せとはおそらく「つけば」のことでしょう。産卵期のハヤ(ウグイ)を捕る漁法です。
 川瀬の流れに手を加えて川底にきれいな砂利を入れ、ハヤの産卵場所を作る。これが「付け場」。これは良い場所があったとハヤが集ったところを投網で捕るのである。先日テレビで那珂川の川漁師さんが「アイソ堀」というハヤ漁をしているのを見ましたが、ほぼ同様でした。千曲川のつけばが独特なのは、むしろその食べ方にありまする。4月中旬になると河原につけば小屋が建ち、ここでハヤの料理を供する。職場の仲間とか同窓会などで「つけば会」をするのは初夏の風物詩といったところ。私も毎年1度は行きます。塩焼・唐揚・天麩羅などハヤづくしでビールを飲む。正直言ってそれ程うまいものでもないけれど、河原の風の中でヨシキリの声を聴きながら酒を飲むのは気持がいいものです。



梅干

梅干してきらきらきらと千曲川    森 澄雄

 川べりの農家の庭先でしょうか。真っ赤な梅が広げられて夏の陽光を浴びている。きらきらきらという一見稚拙な擬態語によって捉えられた千曲川の明るさがこの句の眼目でしょう。時間が止ったような情景を詠みながら、この川面のきらめきによって一句に微妙な時間が流れるのです。この独特の時間感覚が澄雄俳句の「秘伝のタレ」で、いつも感心させられます。



登高

登高や一曲見せて千曲川       鷹羽狩行

 山上から、大きく蛇行する千曲川の流れをを見おろした景。千曲の一曲という言回しは、いかにも狩行さんらしい機知の表現ですね。機知の句はとかく通俗に傾き、「作者が面白がっている程には読者は面白くない」ということになりがちですが、さすがに狩行さんは腕を見せる。



蝉鳴くや松の梢に千曲川       寺田寅彦

 これも高い所から見おろした千曲川。堂々たる古格の句で、千曲川も立派に見えます。今日われわれの作る俳句からは、風格とか重厚さなどは失われがちなので、このようにどっしりと落着いた句には憧れをおぼえます。


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