俳句の森 >臼田亜浪句抄



臼田亞浪句抄

(竹内睦夫)




臼田亜浪は大正昭和の俳壇に独自の地歩を築いた俳人である。明治12年小諸生まれ。はじめ新聞記者であったが、大正四年「石楠」を創刊主宰し、昭和26年没するまで旺盛な作句活動をするとともに門下に多くの俊英を育てた。

その作品は抒情を秘めた雄渾な自然詠を特徴とし、愛誦すべき句があまたあるのだが、残念ながら今日亜浪の句業に接する機会は少ないのが実状である。ここに「松毬」誌に連載した「臼田亜浪句抄」に若干の加筆をして転載し、亜浪俳句の一端をご紹介する。

大正4年 亜浪37歳

この年、大須賀乙字の助力を得て「石楠」を創刊。虚子のホトトギス、碧梧桐らの新傾向俳句の双方を批判して俳壇革正を訴えた。

凩や雲裏の雲夕焼くる

亜浪は自然礼賛を唱え、季題趣味の発想を排して現実の自然を実感的に把握することを目指した。作者と自然との直接的な交感の中で、季感は約束事ではない象徴性として顕れ、作者の境涯に発する感慨や詠嘆を受け止める抒情性を一句にもたらす。私なりに要約すれば、このように考えていたと思われる。

掲出作は「雲裏の雲」の措辞が一句に奥行きを与えて魅力的である。景の輪郭を明瞭に描き出す眼の確かさが感じられ、自然現象を直叙しながら、おのずと深い寂寥の感が滲んでいる。

なお亜浪は季重ねを厭わず、また初期には字余りの句を多作している。約束事よりも実情実感を重んじ、しかしそれを俳句形式として自立させなければならない。そのための模索の時代であった。

雲雀あがるあがる土踏む足の大きいぞ

打水や砂に滲みゆく樹々の影

波来れば立つ巌鳥や秋の風

あげ泥をにじりゐる蜷や野菊咲く

栂風も添ふ山鳴りや霧の中

大正5年 亜浪38歳

この年の冬やまと新聞を辞し、以後俳句一本の生活に入ることとなる。

氷挽く音こきこきと杉間かな

この句を夏の部に採録する歳時記もあるが、誤り。氷水を作ろうというのではない。寒中、製氷池から氷を切り出しているのである。厳しい労働であるが、杉林の奥から聞こえる音のみを描いて清冽な印象を湛えている。

寒鰍水底の石に喰ひ入りぬ

我が影に家鴨寄り来ぬ水の春

雲雀落つ谷底の草平らかな

ダリア大輪崩れて雷雨晴れにけり

墓起す一念草をむしるなり

大正6年 亜浪39歳

この年「評釈正岡子規」執筆。

夕千鳥一叢芦の淋しけれ

亜浪は鬼貫と芭蕉を敬慕し「まことの俳句」を唱えた。彼は「寂しさ」こそが人間本然の心であるとし、俳句の「まこと」もまた寂しさを透してしか得られないと言う。この寂しさは、さまざまに変奏されながら亜浪一生の句業を貫く基調をなしている。

野見山朱鳥は、亜浪には過剰の弊があると評した。夕風に揺れる一叢の芦、残照の中を飛ぶ千鳥の声。この景に更に「淋し」の語を加えることは、俳句の結構から見れば駄目押しの過剰であるかも知れない。だがそこには「淋しい」と叫ばずにいられなかった人間亜浪がいた。

岩床走る水の冷たき崖椿

萱の根の甘さ噛み居る暖かき

潮あとの海月とろけつ昼霞

鳩啼いてひとり旅なる山の麦

夜半の秋魚籠の石首魚鳴くくくと

大正7年 亜浪40歳

評論「表現の自由と季感の拡充」を発表。この年「石楠」に内紛あり、創刊の同志であった大須賀乙字らと袂を分かつこととなる。乙字は卓越した俳論家であり、その季題論から亜浪は大きな示唆を得ていた。

雲せめぐ空に散り葉の相追へり

晩秋か初冬か。空には雲塊が押し合い重なり合って流れ、梢を離れた木葉は追いつ追われつ宙を飛ぶ。 この句を右の事情と絡ませて読むべきではあるまい。だが、動に動を取り合わせた異様な情景には、闘いの時代にあった亜浪の心情が投影されている。

石一つ一つ光りをる霜の月

涸れ沼の芦けぶり居る野焼きかな

畦切れば螻夥し春の水

芦生ふるかぎり潮押す朧かな

雪霞野の萱骨のとげとげし

このページの一番上へ戻る↑

大正8年 亜浪41歳

亜浪の妹が早世、その遺児を引き取る。実子のなかった亜浪はいきなり六歳の娘の父となった。

石蹴りの筋引いてやる暖かき

亜浪は自然詠を専らにし、自身の日常生活を題材とすることは極めて少なかった。この句はその少ない一例。「暖かき」は、娘を得たことが亜浪にもたらしたふくらみであろう。

この沢の真清水の芹誰ぞ摘まむ

足袋裏を向け合うて炉の親子かな

春風や動くともなき雲一片

苔水を蜂ふくみ去りふくみ去る

鵜の嘴のつひに大鮎をのみ込んだり

大正9年 亜浪42歳

旅に過ごした年だった。1月相模に遊び2月には東海関西方面を旅行。夏には北陸を巡遊し、その後信州縦断の旅をしている。

鵯のそれきり鳴かず雪の暮

相模の中津での作。名吟として名高い句だ。

降りしきる雪の中から聞こえた鵯の鋭い声。待つともなく次の一声に耳を澄ますが、それは聞こえて来ない。小さな喪失感が心を捕え、暮雪の中に独り取り残されたような寂寥へと作者を沈めて行く。 少ない材料で単純に作られているが、一読して深く心に残る句だ。「雪の暮」がよく働いている。

木曾路ゆく我も旅人散る木の葉

亜浪はその第四句集に「旅人」と題した。人生を旅と観ずることは古今に普遍だが、俳句を「道」と考えていた亜浪には、より強く意識されていたであろう。この句は現実の旅と想念としての旅が重なり合ったところに生まれたものだ。「我も」とあるのは、もちろん「旅人と我名呼ばれん初しぐれ」と詠んだ芭蕉を念頭にしてのこと。

残り菜の紫深き雪間かな

舌さらさらといつまで残る茗荷の香

稲田蔽ふ雲冷やかに暮れてゆく

草にひく我が影親し秋夕べ

大正10年 亜浪43歳

再び「石楠」社中に紛争あり一部が分裂。体調を崩していた亜浪の心労は大きかった。

底つ火に我が魂通ふ霧の中

「浅間山の印象」と題する一連の中の一句。小諸生まれの亜浪にとって浅間は特別な山だった。 亜浪は言葉としての季語ではなく「自然感」を俳句の核とすべきことを唱え「自然の心と人間の心と融合冥化した解脱的心境」に立てと言う。この句も浅間山と亜浪の霊的交流から生まれたのであろう。しかし話が余り宗教的になって来ると私などは従いて行き難くなる。むしろ、腹の底にマグマを滾らせる浅間山は亜浪の自己イメージだったと考えれば得心が行く。

木より木へ通へる風の春浅き

大浅間ひとり日当たる山冬木

雨霧らふ若葉の中の椎若葉

鳰鳴くや水も夏なる雲の影

鳴かずなんぬ月浴びさする籠の虫

大正11年 亜浪44歳

一ところ風見ゆる山の青葉かな

新涼や夜のはなれゆく浜篝

七夕や灯さぬ舟の見えてゆく

蜻蛉猛し茜濁れる風の空

秋風や影としもなき石の影

このページの一番上へ戻る↑

大正12年 亜浪45歳

この年9月1日関東大地震。被害は死者行方不明者10万余、被災家屋46万余にのぼった。

すさまじき火雲よ月の燃ゆる燃ゆる

破調とリフレインに亜浪の驚愕と自失が表れている。この震災によって門人の富田木歩と石井陵雪を喪う。殊に木歩の最期は悲惨であった。

闇の空よりちらちらと花散り来たり

石楠花に手を触れしめず霧通ふ

石楠花の山気澄まして暮れゆくか

山清水魂冷ゆるまで掬びけり

火鉢にかざす手の中の我が指の骨

大正13年 亜浪46歳

一月厳寒の北海道を巡遊、吹雪の網走湖を橇で横断するなど厳しい自然に触れる。各地で句会を催して、北海道に石楠俳句の浸透を図った。後年十勝、洞爺湖、登別、網走に亜浪句碑が建立されている。

かつこうや何処までゆかば人に逢はむ

亜浪の代表句の一つとして夙に知られている。大正3年夏、36歳の亜浪は北信濃の渋温泉で療養していた。この句はその折の経験を10年後に回想して作ったもの。

若き日の亜浪は文筆のほか事業にも野心を持ち、また政治家の道にも意欲を抱いていた。しかし病を得てそれらを諦めた亜浪は、この高原生活の中で俳壇に立つ決意を固めていった。ホトトギスに「俳句に甦りて」を発表、翌年には「石楠」の創刊に至る。渋温泉の夏は亜浪にとって思い出深い人生の転機であった。

郭公の鳴き交す山路を独り歩いていたが「誰にも会わなかった」と詠んでも、孤愁を湛えた佳句になり得たであろう。だが亜浪は「何処までゆかば人に逢はむ」と嘆ずる。亜浪にとって道とは、どこまでも行くべきもの、行って何者かに出会うべきものだった。孤独を肯いつつ出会いを希求する旅人亜浪への共感が、この句の愛誦される所以であろう。

今日も暮るる吹雪の底の大日輪

誰もゐねば火鉢一つに心寄る

宵々に雪踏む旅も半ばなり

水鳥に風の木華の降ることよ

囀りの一木が日向つくりをり

大正14年 亜浪47歳

3月「石楠」10周年記念大会。7月より出雲、京都、東海を旅行。句作いよいよ旺んであった。

夜桜や空の深さに面さらす

花桐の紫はしる雷雨かな

のうぜんの暮れて色なし山の家

夕凪ぎや浜蜻蛉につつまれて

漕ぎ出て遠き心や虫の声

大正15年 亜浪48歳

死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり

誰か知る人の死に遭って発した感懐だろう。死ぬものは死ぬのだ、と言い放って一見非情の句と見える。だが眼前の躑躅は再び想いを死者へと向わせてゆく。その燃える血の色が、ぶっきらぼうな断定に陰影を与えている。

水谺深き夜明けの初音売

もかもかの手袋に手をつかまれし

山の椿小鳥が二つかくれたり

ざうざうと竹は夜を鳴る春山家

ががんぼのもげたる足の本の上



このページの一番上へ戻る↑

昭和2年 亜浪49歳

七月から八月の東海関西旅行をはじめ、多く旅に過した年だった。この年に限らず実によく旅に出ている。俳句の指導や講演などのためではあるが、そもそも亜浪は旅が好きだったのだ。彼は「旅はしばしばその前に非凡の象を示現することによりて、旅人の心をおのづからに偉大の凡人たらしめる」と述べている。

木の芽の息が青空に立ち昇るなり

浜道や砂の下なる残り雪

くらきより浪寄せて来る浜納涼

蝙蝠や町の夕べは人くさき

寒い月夜の岩がざぶりと浪浴びて

昭和3年 亜浪50歳

5月中国朝鮮を旅する。釜山、ソウル、平壌、仁川、奉天、大連などを巡遊し各地で句会を催す。帰路、老父危篤の報に接し急ぎ帰国、小諸へ向う。6月父文次郎逝去。

草原や夜々に濃くなる天の川

秋の句だから帰国後に詠まれたもので、日本の景だろうと思う。しかしこの天の川には大陸で見た星空の印象が揺曳しているのではないか。 くさはらと訓むべきだろうが、ソウゲンと音読したくなる。私の勝手な鑑賞にとどまるけれど、一面の大草原が地平線まで続き、そのまま星空に連なっている大景が浮んで来る。以下「満鮮旅上抄」より。

水のなき川ばかりなる昼霞

干潟遠く雲の光れる暮春かな

夕蛙旅はさびしと誰がいへる

泥棒市のぼそぼそな木も若葉して

駒鳥の声水は常世に碧くして

昭和4年 亜浪51歳

えにしだの夕べは白き別れかな

若葉曇り夜は梟の啼き合へる

螢ゆく磧の果ての夜の雲

花桐や海は音なく照りまさり

ばらくづれたり師走の畳の上

昭和5年 亜浪52歳

この年も山陰北陸などを精力的に巡っている。故郷信濃へも出向き、長野、上田、佐久で俳句会を開いている。

雪散るや千曲の川音立ち来たり

昭和22年、長野県下の石楠会員によりこの句を刻んだ句碑が小諸懐古園に建立された。

霜の夜や枝張り合うて楢櫟

陽炎の草に移りし夕べかな

山吹や庭の隅からくらくなる

梅雨荒れの浪に吹かれて浜鶺鴒

山畑の霧やチビ茄子ヘボ胡瓜

このページの一番上へ戻る↑

昭和6年 亜浪53歳

臼田亜浪全句集を通読していて昭和に至ると、慶弔贈答の前書を付した句が次第に多くなってくる。大結社となった「石楠」の総帥としての立場ということもあろうが、亜浪は門人やその家族への祝句、追悼句、見舞の句などを丁寧に作っている。

浜浪や秋ゆく草に寄せ返し

これもある人への手向けの一句。意の籠った篤実な追悼句である。そして、そのような事情を離れて読んでも、心に景が広がる。

人形の顔も夜となる雪の声

山桜白きが上の月夜かな

牡丹崩れぬ手にとつて見るべしや

月涼しわれは山の子浅間の子

沼楓色さす水の古りにけり

昭和7 年亜浪54歳

夜着の中足がぬくもるまでの我れ

屋根の上に凧来てをりし春の風

三月寒き満州国の出来あがり

牡丹見てをり天日のくらくなる

家をめぐりて今年の夕日おくるなり

昭和8年 亜浪55歳

亜浪は破調の句をしばしば作っている。

かなかな遠くなりぬ虎杖の路

破調や季重ねを厭わなかった亜浪は、ホトトギスと新傾向(自由律)との中間派と見られがちである。だがそのような分類にあまり意味はない。彼にとって重要なのは「何を詠むか」であり、更には「いかなる人間として俳句を詠むか」だった。曰く「俳句に人格の光あれ」。 彼は鬼貫を敬慕し、その「句の姿は其の時のうまれ次第」という言に共感していた。とはいえ、亜浪においてもこの種の句の成功率は低かったと言わなければならない。

汚れつつ木蔭へ雪のちさくなり

鱈ちりの炭の尉たちやすき夜や

良寛さまの山への道よ巣鳥啼き

そのむかし代々木の月のほととぎす

隠沼の夕雲をうつせり枯芦

昭和9年 亜浪56歳

亜浪は気性の激しい親分肌の人だったが、一方長年にわたり不眠症に苦しむという一面も持っていた。幾つかの持病を抱えていたこともあって、しばしば東京を離れて温泉に滞在した。この年も塩原温泉、伊豆古奈温泉などに身を養っている。

ほととぎすふるさとの夜の夢浅く

これは六月小諸を訪れ菱野鉱泉に一泊した折の句。十八歳で上京した時から数えれば既に半世紀近くを経ている。ここは故郷であると同時に旅先でもある。浅い眠りの明け方か、夢とうつつのあわいに聞えるホトトギスの声は、故郷の囁きであっただろうか。同じ時に、

父よ母よ旅のいとまの墓参り

の一句がある。前の句とともに芭蕉の「秋十とせ却つて江戸を指す故郷」が思い合わされる。亜浪の「ふるさと」と題する詩文の結び部分を以下に引く。

「ふるさとの山、ふるさとの川は、昔ながらの山、川であつたとしても、ふるさと人が、昔ながらのふるさと人でなかつたとしたら?そして、それが人生の常としたら、人生は、なんといふ淋しさであらう。すがらうよ、ひとすぢの心もて俳句に。」

淡雪や妻がゐぬ日の蒸し鰈

浜撫子恋知り頃の海女にして

草深く道失へる暑さかな

雪虫のゆらゆら肩を越えにけり

このページの一番上へ戻る↑

昭和10年 亜浪57歳

四月目黒雅叙園にて石楠二十周年記念大会。九月中国への旅に出る。旧満州・中国・朝鮮を巡り、帰国後は九州から四国、中国地方を経て十一月帰京という大旅行だった。

明日は南へ銀漢眉に迫るなり

ハルビンでの句。高く調子の張った旅吟である。

人形の観念の眼や菊白し

帰途徳島に寄った亜浪は阿波人形の名工天狗久老人の工房を訪れ、その芸談に感激した。単なる役柄でなく人物の本質を掴み、その「人品骨柄」を形にするために厳しい修練を続ける天狗久の仕事ぶりは、亜浪の目指す俳句の道に通ずるものであった。この句の「観念の目」は亜浪が人形から感じ取った内面性であり、白菊は賛嘆の情を込めた配合であろう。

雛の眼の遠い空見ておはすなり

春雨のえにしだの素直なる青さ

いるか飛ぶ秋を晴れたる潮路にて

山の声しきりに迫る花竜胆

昭和11年 亜浪58歳

藻の花に水死の夢を想ひけり

夏雲の伸びて暮れ来ぬ牡蠣筏

月となる洞爺の水に虫通ふ

彼岸花薙がば今もや胸すかむ

野焚火の四五人に空落ちかかる

昭和12年 亜浪59歳

昭和六年の柳条溝事件に始った日中戦争は重大な局面に至っていた。

ニュース聞く眼を昼の蚊のかすめけり

前書に「事変ニュースに心を労す」とある。七月七日の蘆溝橋事件のことだ。これを契機に日本軍の中国侵略は全面戦争に突入した。この時には未だ戦争はニュースの中の出来事だった。しかしやがて、日々拡大する戦線に兵員と物資を供給するため日本社会は急速に戦時体制へと傾斜して行く。それは亜浪の生活にも句業にも大きな影響を及ぼすこととなるのだった。

鉄橋へ春水のかげさわがしき

山桑の花白ければ水応ふ

言問はむ真間の芦洲に啼くげげす

花氷やせて西日の深かりぬ

兵が発つ暮天の燃えの秋ゆくか

昭和13年 亜浪60歳

改造社が企画した「俳句三代集」の審査員として数ヶ月にわたり選に当る。

放つ蛾のきららが指紋見せにけり

きららは雲母のことだが、ここでは蛾の鱗粉を指している。蛾をつまんで放り投げた指に、銀粉がくっきりと指紋を浮上がらせているのだ。亜浪は大景や中景を詠むことが多かったが、微細なものに目を向けた時もまた印象鮮明な句を作っている。

寒風の椿の朱唇ただれたり

巣にくだる鷺のもろ羽の碧みさす

風青く鱒の子はやも人に怖づ

繋留気球秋の積雲崩えやらず

カキタセンシス俄に寒き雲わたり

このページの一番上へ戻る↑

昭和14年 亜浪61歳

伊豆、長野、栃木、山梨など、この年も精力的に各地を旅している。

天ゆ落つ華厳日輪かざしけり

五月下旬日光での作。格調高い、良く知られた句だ。亜浪はこの時の日光での経験について書き残している。 麓では蝉が鳴く薄暑の陽気だったが、登っていくと芽吹きの風景となり、戦場ヶ原は前日吹雪だったとのことで寒かった。一日の旅程で初夏から晩冬までを経験したのだ。彼は、こうした現実は季語概念に囚われている俳人を困惑させるだろうが、これこそ「活ける自然の現はれ」であると言う。「その直面せる現実を現実として表現の翼を暢べさへすれば、それが詩であり俳句であるのである。」 季語の伝統的な概念ではなく現実から感受する自然感を俳句の核とすることが、亜浪が常に説くところだった。

山雷や毛野の青野に人も見えず

山鴬の木魂の深く雪照らふ

秋風や網の小鯛の十ばかり

尾花そよぎ富士は紫紺の翳に聳つ

身延の燈煌々と虫嗄れきりぬ

昭和15年 亜浪62歳

戦線は中国大陸から仏印へ拡大、日米間の緊張も高まりつつあった。この年には大政翼賛会が結成され、戦時体制への国民動員は社会のあらゆる分野に広がって行く。

皇紀二千六百年の天の声

現代から見れば評に窮する新年詠である。この年は日本にとって大きな転換点であるとともに、俳壇と亜浪個人にとっても波乱の年だった。

三月末、亜浪は脳溢血に倒れた。

春愁の幻像失せて眠りたり

木蓮に風雨の声の昏くなる

これらは病中吟。幸い軽症ではあったが、六月まで鹿教湯・田沢で静養することとなった。そしてこれは後に亜浪の命を奪うこととなる病の、最初の発作だった。

この年「日本俳句作家協会」が設立された。端的に言って「聖戦遂行」のため俳句界を統制する組織である。高浜虚子が会長、亜浪も役員に名を連ねている。

一方二月の「京大俳句事件」に始る俳句弾圧事件が起き、翌年まで続く。非伝統的な新興俳句運動を進めていた俳人達が特高に検挙され、多くの俳句雑誌が潰された言論弾圧である。無季や自由律の俳句はアカだと決めつけられた。戦争に反対する言動はもとより「戦争協力に充分積極的でない」とみなされた者も恣意的な弾圧に晒される社会となっていたのだ。この弾圧は多分にみせしめ的なものだったが、その効果は大きかった。俳人はもう好きに俳句を作っていることは出来なくなったのである。大方の俳句結社は時勢に従う道を選び、新体制への貢献を競い合うかのように、紀元二千六百年記念事業が続々と行われた。革新的と見られていた俳人も、翼賛俳句を発表して保身を図るところまで追込まれていった。

皇道を思念すかまつか火のごとし

亜浪もまた皇国俳句とでも呼ぶべき句を多く作った。だがそれは強制されたものではない。彼はこの句に触れた文章で、自分はもともと「皇道の塊」であり、昨今の時流に乗ったにわか皇道主義者とは違うのだ、と述べている。亜浪ははっきりとした翼賛体制推進派だった。そして、石楠が創刊以来掲げる「まこと」とは皇道を体現する民族精神に他ならないと言っている。

十月、病漸く軽快した亜浪は門人を伴い紀元二千六百年奉祝のため橿原神宮参拝の旅に出た。

涙の眼あぐる秋天鵄かがし

弓杖立たしし地はも秋を陽炎へる

八紘を一宇と宣らす声秋天

これらの句が石楠の目指した「まこと」の姿なのであろうか。亜浪自身はそう主張しているが、私には作句に先行する観念ばかりが浮立って見える。「自然の霊偉の前に無私であること」を説き続けた亜浪の言説は、この時期「戦時における民族詩の使命」へと大きく重心を移している。

富士ほのと劫火の舌の空ねぶる

一月伊豆大仁温泉に滞在中に、近くで大火があった。亜浪は夜火事見物に出かけて土手から転げ落ちたという。好奇心旺盛な性格を示すエピソードである。

三月に脳溢血に倒れてからは、療養生活を詠む句と、病床で過去を回想して作った句が多くなる。

山椒魚に真清水今も湧き流れ

以前霊泉寺温泉で見た景を回想して詠んだもの。その故もあろうか、描写を超えた精神性を感じさせる。山中のわずかな湧水。そしてそれが作る湿地だけを己が世界として代々生き続けてきた山椒魚。その小宇宙は、人の世の変転に関わりなく悠久の時間を送り、今この時も続いている。

亜浪の素晴しさは結局この方面にあるのではないかと思う。

余談ながら「山中も時流れをり山椒魚/小林侠子」も忘れられない句である。期せずして生れた師弟唱和の吟。

行く雲の心を誘ふ暮の春

浅間見えねばひたに聞き澄む遠郭公

暁のかなかな三日月われをのぞき落つ

昭和16年 亜浪63歳

前年末に亜浪にとって三人目の、そして初めての男の孫幸人が誕生した。彼はこの頃、可愛い盛りの孫たちを詠んだ句をしばしば作っている。

うまご泣きやめり桜草日をふくむ

雪まろげ雪にまろびてうまごらは

うまごの耳の敏くなりしよ南風吹く

麻疹児の咳きやまず春尽くる夜や

写真で見る亜浪はちょっと近づき難い雰囲気だが、孫の前では好々爺だったのだろう。父母の法要のため故郷を訪れるなど、再び活発に動き始めた亜浪だったが、九月に二度目の発作に見舞われた。一時は全ての仕事を放棄しての療養生活を余儀なくされていたが、その後やや軽快し「石楠」巻頭言を集めた著書の編集などに当っていた。そして十二月、日米開戦を迎える。亜浪はこの時激烈な一文を残している。

昭和十六年十二月八日!
この日こそ悠久二千六百有一年を通じて、最も記念すべきその日である。(中略)暴戻不遜なる米英膺懲の大詔を渙発せられたその日である。
   うてとのらすみことに冬日凛々たり
   おほみことかしこ冬天ただに邃し
そして、感激の涙痕を拭ひもあへず、唇頭を迸つたのはこの二句である。

やがて齎される華々しい戦果の報に、亜浪は大いに昂揚する。それはもちろん彼一人の反応ではなかった。

寒雷や肋骨のごと障子ある

夏萩の花のともしく夕すだれ

コスモスへゆきかまつかへゆき憩ふ

日輪病めり芙蓉の瓣の翳ふかく

日向道とれば木の葉のはらはらす

昭和17年 亜浪64歳

前年九月に脳溢血の二度目の発作に襲われたため、この年一切の外出をひかえて静養していた。

詩想の源泉ともいえる旅ができない亜浪は身辺の題材や回想によって句を詠んだが、最大の関心事は目下の戦争の行方であった。開戦当初は連戦連勝の報に国中が沸返り、亜浪もその戦果に感激する句を多作した。しかしその勝報も長くは続かなかった。

霜の日輪かがしも醜ら討ちなびけ

みいくさはマニラ抜きしよ事始

コレヒドール落つ矢車の雨はじき

讐なせる空母屠りしか若葉光る

空襲なんぞ天兵芽木の空護る

若人がゆくよゆくよと鵙叫ぶ

この年の作品の大方はこのような調子の句である。そして戦後になって句集を編んだ時には、そのほとんどが捨てられたのだった。

このページの一番上へ戻る↑

昭和18年 亜浪65歳

太平洋に遠く拡大した戦線のいたる所で日本軍は敗退を重ねていた。その情報は正しく伝えられなかったが、国内の情勢もいよいよ厳しさを増していた。

桜未だしガダルカナルの名を呪ふ

神州の山桜咲く撃ちてしやまむ

アッツ思へば梅雨めく寒さ身を締むる

しかし、前年の熱狂と較べれば亜浪の戦争詠は少なくなり、再び自然に目が向けられる。そしてその自然詠は幾分陰鬱な響きを潜めているように感じられる。

谷底に田打てる見えて一人なり

雛壇に篁翳をひいて澄む

非時の雪はくれむすでに錆ふかき

残炎の糸芒時にゆらぐのみ

濁流に花かざしゐるよ月見草

昭和19年 亜浪66歳

物資の供給はいよいよ逼迫し、雑誌の発行も統制の対象となった。「石楠」も頁数・発行部数を削減され、更に他の二誌と合併させられた。

春来たり醜を殲さんときは今

依然としてこのような句も詠んでいるが、東京は度重なる空襲に晒され、敗色は覆うべくもなかった。亜浪の一家も空襲警報のたびに防空壕に待避するという、不安と緊張の中で暮していた。

海いよよさわだち梅雨の雷近し

紅蜀葵ラジオの雷気すさまじき

はやて雲湧くに猛りて山の鵙

敵機去り小菊西日を抱き咲く

バンドの銀は独鈷よ枯れし菊ながら

昭和20年 亜浪67歳

三月十日の大空襲により東京は空前の大被害を蒙った。

春寒の夜の雲燃ゆるまがまがし

東京中野の石楠発行所を兼ねる亜浪の居は無事であったが、印刷所が罹災したため、以後石楠は休刊のやむなきに至った。亜浪も退避を決めて都下西多摩へ一家をあげて疎開した。

花散らふ夕風寒し山を前

この句には「旅ならぬ旅に」の前書がある。十五年に病に倒れて以降外出をひかえて静養していた亜浪は、空襲に追われて家を離れ、慣れぬ土地に寓居することとなった。

眠剤を飲まぬ久しき夜の蛙

強いられたものとはいえ、この田舎暮しは亜浪の精神にいっときの安らぎをもたらしたようである。戦局に触れた句は皆無となり、多摩の自然とそこでの家族の生活を静かに詠んでいる。少なくとも作品の上では、戦争の現実を忘れようとしているのかと思えるほどである。

ぴほぴぴほぴと木の芽誘ひの雨の鵯

二川光り合へば山鴬声降らす

梅雨気だち薪の渋ると妻が言ふ

蜻蛉追ふ子に坊主雲覗きけり

八月十五日、ついに敗戦を迎える。

忍べとのらす御声のくらし蝉しぐれ

戦前戦中の言動を考えると、亜浪の落魄感は大きかったことであろう。しかしこの句を読むと「え、それで終りですか」と思う。いわゆる玉音放送を詠んだこの句は、紀元二千六百年の作である「八紘を一宇と宣らす声秋天」や開戦時の「うてとのらすみことに冬日凛々たり」と全く同じ構造である。同一作者の句であるから異とするには当らないが、何事も詔(みことのり)のままというのは亜浪の「皇道主義」も便利過ぎやしないかと皮肉の一つも言いたくなる。

「うちてしやまむ」と詠み「屠りつくせ」と詠んだ戦争俳句の結末は、「蝉しぐれ」で納ってしまって良いものなのか。今日の時点から振り返って亜浪の態度をあげつらおうとするのではない。むしろ、蝉しぐれで納ってしまう俳句というものの性質が不審なのである。

刺の道ゆかむとしては虫に哭く

颱風の過ぎし月夜を虫こぞる

戦争もまた過ぎ去った台風のようなものなのか。俳句が社会の現実に対して無力だと考えていたのなら、虚子のように「戦争は私の俳句にいかなる影響も与えなかった」と言い放てば良い。しかし亜浪は俳句による民族精神昂揚を叫び、国家的目標への貢献を主張した。戦争協力うんぬんとは別に、こうした目的論的俳句観について決着をつけてくれないと、はなはだ片づかない気持が残るのである。

昭和21年 亜浪68歳

前年暮、亜浪は疎開先から中野の自宅に戻った。休刊していた「石楠」も、印刷所を長野の大日本法令印刷に移して復刊された。再出発の歩みを始めた亜浪だったが、八月に四十五年連添ったすて夫人を病気で喪う。「石楠」門人にも母のように慕われていたという夫人は、

にこにこと笑うて暑きこの世去る

の辞世を残した。享年七十。

妻病めば目の覚めがちに蚊の声す

頼めなき妻の命よ死蛾見出づ

月澄みて妻のうめきの胸抉る

妻死んで虫の音しげくなりし夜ぞ

妻あらばとぞもふ朝顔赤き咲く

このページの一番上へ戻る↑

昭和22年 亜浪69歳

小諸懐古園に「雪散るや」の句碑が建立され五月に除幕式が行われたが、亜浪は欠席。もともとの病気の上に痔疾が重くなり外出できない亜浪は、遠く故郷の地を思う外なかった。

緑雨の夜浅間千曲のまざまざと

俳句も追憶の句や夢の句などが多く、亜浪俳句の持っていた一種の荒々しさは影を潜めている。

鵜一点遠く雪泡寄せ返す

秋風は冷たしと思ひ歩をとどむ

苦笑ひして日が落つる野分なか

鶏頭の倒れて燃ゆるうらがなし

行火抱き撃たれ兎の涙おもふ

昭和23年 亜浪70歳

十月、古希祝賀と併せて石楠三十五周年記念大会が開催された。亜浪も病を押して出席したが、このような場に出たのはこの時が最後だった。

白れむに夕日の金の滴れり

おそらく亜浪居の庭には白木蓮の木が植えられていたのだろう、昭和十三年頃から毎年詠まれている。亜浪は白木蓮の純白を愛し、またそれゆえの傷つき易さを哀惜した句を詠み続けた。全句集では六十余句を数えられるが、掲出の句は最も美しい。句の姿は端正で景は華麗、しかし言いようのない淋しさを沈めている。

はずみなき歩みに街の麦黄ばむ

亜浪を知る人びとの書いた物を読むと、みなその負けん気の強さを言っている。その亜浪も病気、戦争、妻の死を経て古希に至り、痛切に老いを自覚させられることが多くなっていた。

寒戻り雛の眠りも浅からむ

朝顔をつかみ蟷螂雨うかがふ

秋深くなりて不気味な朝焼けす

もの枯るる音のたのしき日向ぼこ

昭和24年 亜浪71歳

「定本亜浪句集」成る。二十一年から二十五年にかけて、俳書や句集など亜浪の著書が矢継早に出版されている。

花桐の香や嬌声の路阻む

かなかなに旅人われを思ふ昏し

ともからみして朝顔の雨に耐ふ

夜は寒し浅間の怒り身にひびき

昭和25年 亜浪72歳

私一個の感想としては、最晩年の句は採るべきものに乏しい。それは表現技術上の問題ではなく、亜浪俳句の根底をなす「気合」が失われつつあったことの表れのように見える。

石楠花のまざまざと夢滅びぬる

西へ西へ吹かれ峯雲の聳ち消ゆる

爪紅を群れめぐる雨の蜆蝶

寒菊の小菊を抱いて今日ありぬ

昭和26年 亜浪73歳

わが魂を吹きさらすこの寒天ぞ

中だるみせし梅雨のわが七変化

日天やくらくらすなる大向日葵

苦渋いよいよ深し霖雨の芒荒れ

十一月十日亜浪は三度目の脳溢血の発作に襲われた。門人の医師等が治療に当ったが、意識の戻らぬまま翌十一日その生涯を閉じた。享年七十三。十四日中野の宝仙寺にて告別式が執り行われ、同寺内に埋葬された。法名石楠院唯真亜浪居士。

右のような事情で、特別辞世の句というものはない。最後に作ったのはおそらく

鶏頭しよんぼり落葉時雨の黄昏るる

ではないかと思われる。ひどく寂しい句である。そしてここでも亜浪は字余り季重ねを意に介していない。


このページの一番上へ戻る↑


亜浪俳句の一端をご紹介すべく連載させて頂いたこの稿も今回でその責を終えます。

没後五十余年、亜浪への評価は不当に低いと感じていました。その句業が論じられること少ないまま「忘れられた俳人」になりつつあるのではないかとの危惧から、何の見通しもないまま「句抄」を書き始めました。舌足らずな文章にお付合い頂いた誌友と編集部に深謝申上げます。

「わが仏尊し」で言うのではなく、亜浪は現代俳句史の中に正当に位置づけられるべき作家です。むろんその仕事は私の手には余ることですが、今後も亜浪を読み続けたいと思っています。


この「臼田亜浪句抄」は俳誌「松毬」に平成15年から16年にかけて連載したものです。
亜浪の句は「臼田亜浪全句集」に依っています。



俳句の森の入口へ